没後一〇〇年、今、植村正久に学ぶ意義深さ
〈評者〉芦名定道
植村正久(一八五八~一九二五年)は近代日本のプロテスタント・キリスト教を代表する牧会者・思想家であり、二〇二五年で没後一〇〇年を迎えた。現代日本のキリスト教は植村ら明治の先達の宣教活動を土台としており、それは私たちが受け継いだ貴重な信仰の遺産である。現在のキリスト教では、混迷を深める日本社会全体と同様に、コロナ禍前から静かに進行していた問題が一挙に吹き出した。この現状を理解する上でも植村は繰り返し学ぶべき参照点であり、植村らの思想と実践はキリスト教思想研究の重要テーマである。書評者の関心はここにある。以下紹介するのは、このために相応しい植村正久の研究書であり、著者は、先に『植村正久の神学理解─ ─『真理一斑』から「系統神学」へ』(一麦出版社、二〇二三年)を出版しており、本書の論述は明解で説得的である。本書では、宗教論(第一章)から、神論(第二章)、人間論(第三章)、キリスト論(第四章)、贖罪論(第五章)まで、植村神学の全貌が示されている。植村に初めてふれる読者も、本書から植村神学の核心を学ぶことができるだろう。しかし、本書はいわゆる単なる入門書ではない。本書では、植村に関する研究書(二次的文献・関連研究)が広く参照され、植村の生きた時代の思想的状況にも留意して論が進められる。しかも、植村の議論をまとめるだけではなく、批判的な分析が行われる─ ─各章は「検討」の節で締めくくられ、最終章では「問いかけ」がなされる─ ─。
本書の内容をその宗教論から紹介してみたい。植村の神学思想はキリスト教弁証論の伝統に位置づけられる。植村の『真理一斑』は「日本神学界におけるキリスト教弁証論の先駆となった著作」であり、日本は「明治啓蒙主義運動の隆盛期」にあった。キリスト教は「西洋文明との密接な関係」において受容され、植村は「宗教一般の問題から入り、しかるのちにキリスト教固有の論点」に進む仕方で弁証の作業を行った。つまり、人間は本来宗教的存在であり、「すべての人の心に永遠者を求める思いが賦与されている」ことが、植村の議論の前提であり、出発点である。偶像崇拝をも含め、「天下の宗教はすべて天啓に起因」し漸進的に進歩する。キリスト教はこの進歩の過程の完成である(文明の宗教)。したがって、正しく理解された進化論は「キリスト教有神論と抵触」しないし「聖書の語るところと必ずしも矛盾」しない。「植村の神学にはキリストの神性と贖罪の業とを聖書に立ちつつ弁証していく手続きの一方で、道徳的・理想主義的・進歩的傾向が顕著に見受けられ」、「当時の日本の教会の神学的傾向」に関連する(一九六頁)。これはきわめて優れた神学的思索であるが、著者は、次のような「ひとつの問いかけ」を行っている。例えば、植村は永遠(神)と有限(人間)をつなぐ「橋梁」としてキリストを捉えるが、「それは聖書啓示そのものに即した理解であるのかをやはり問わねばならない」。この問いを検討することが、現代の私たちの課題なのである。
本書を通して、読者はキリスト教神学を近代日本の歴史に即して理解することができる。ここから、現代において日本のキリスト教が直面する問題を深く理解することは素晴らしい読書体験となるだろう。著者の研究のいっそうの進展に期待したい。
















