歴史を学び、「今」を生きる
〈評者〉河野克也
本書は、関西学院大学教授として長年「新約聖書時代史」を講じてきた浅野淳博氏が、新約聖書の歴史的・社会的背景について「初学者の入門とそれ以降の学びを導くのに相応しい著作」として著したものであり、実際の教室における誠実な試行錯誤が蒸留された実に行き届いた教科書である。しかし本書は、単なる新約聖書の歴史的・社会的背景についての解説書ではない。むしろサブタイトルが雄弁に語るように、イエスを主・キリストと告白する者の共同体が、その具体的な歴史的・社会的状況の中で自らのアイデンティティを模索していった様を、幅広い資料を丹念に読み解き、時に大胆に想像力を働かせながら描いた書である。さらに言えば、このサブタイトルでもまだ十分ではないかもしれない。というのも、本書の最大の特徴は、最初期のキリスト共同体のアイデンティティの模索を描くことを通して、現代の私たちがどのように自らのアイデンティティを構築すべきかについて極めて深刻な問題提起をしている点にこそあるからである。
氏はそのことを「はじめに」(三頁)と「プロローグ」(一九─三二頁)において読者に丁寧に語りかけ、さらに各章の最後に「新約聖書の時代から学ぶ」というセクションを設けて、過去と現在を著者自身の経験というフィルターを通して結びつけることでその学びの一例を提供し、「エピローグ」ではアマルティア・センのアイデンティティの複数性の概念を手掛かりに、他者を受容するアイデンティティの構築を呼びかける。したがって読者は、同じように各章の内容を踏まえて自分自身でこの問いを問い、自分の言葉で回答するように促されるのである。個人的にはこのセクションに散りばめられた現代の日本の状況に対する厳しい批判に何度も深く頷きつつ、同時に自らの信仰の姿を顧みて落ち着かない気持ちにもなった。それは本書が単なる情報伝達の書ではなく、実存的な応答を促す書であることの証左であろう。
本書はイエスを主と告白する者たちが「キリスト教」としてのアイデンティティを形成していく過程を、三部構成で辿る(第一部「列強支配下の第二神殿期ユダヤ教」、第二部「最初期のキリスト共同体」、第三部「二つの戦争とキリスト教の誕生」)。近年の多様な方法論による成果を広範に取り入れている点は本書の重要な貢献である。大胆に想像力を駆使する点もまた魅力である。パウロの「回心」についての読みはその一例であろう。ステファノ殺害への関与がトラウマとなり、パウロの内面においてユダヤ民族の歴史からくる被害者意識と加害者意識のせめぎ合いが生じ、そこから当時の黙示思想の潮流である「メルカヴァ神秘主義」に傾倒し、その修練の中で神から「御子の啓示」を受けたとする(二九八─三〇〇頁)。メルカヴァ神秘主義の名称は、エゼキエル書一章の幻において神の栄光を運ぶ車輪を指すヘブライ語に由来する。メルカヴァが古代騎馬戦車を指すヘブライ語だったとしても、それが現在ガザで虐殺を遂行するイスラエル軍の主力戦車の名称になっていることは、もはや冒瀆的ですらある。とはいえ、日本もまた隣人たちを侵略した過去を持つ。私たちは、他者を暴力的に排除するアイデンティティの構築と訣別できているだろうか?
河野克也
かわの・かつや=東京神学大学特任准教授