31日間で、聖書が伝える壮大な救いの物語をたどる
〈評者〉村上恵理也
一編を読むごとに「ふう」と大きく息をつく。それは徒労のため息ではなく、心身がこわばりから解放される安堵のため息に似ています。
本書は、前半に旧約14編、後半に新約17編の黙想から構成され、創世記から黙示録まで聖書66巻すべてを網羅するガイドではありません。また、各「黙想」(2ページ)の前後には「聖書の言葉」(1ページ)と「小さな祈り」(1ページ)が配置されており、手元に聖書を置くことなく、聖書を読むようになっています。
これをもって、なぜ聖書通読をうたうのか。この点が本書独特の企てであり、明確な主張にかかわります。ページをめくるごとに目に入るのは、「神からの救い」「神による救い」「神の救い」という言葉であり、これは、救いを「このように表現することもできる」という目覚めへの招きです。本来、人には語り切ることのできない神の救いを、神学、文学、歴史、印象的な挿話など、人の言葉を尽くして多角的に浮き上がらせ、この救いにすべての被造物が招かれている幸いを共有したい。行間から著者の静かな熱量を受けとめる読者は、一編一編、読みきりの文章を読みながらも、全31編をひとつの壮大な物語のように読むことになります。これこそが、本書のいざなう「聖書通読」です。
聖書の言葉、黙想、そして祈り。この循環を数日も繰り返すと、神からの救いがこの私に関わる事柄として迫ってきます。より厳密には、私がすでに神の救いに生き始めている事実に対する気づきを得ます。一日一編、「既視感」ならぬ「既恵感」とでも言うべき(造語をご容赦ください)、何とも不思議な感覚に包まれるのです。これが冒頭の安堵の息の正体かもしれません。
たとえば、ノアの箱舟の物語の黙想(第3日目)では、これが歴史を記述することを目的としない原初の物語と断ったうえで、「もっとも重要なことは、『人のゆえに地を呪うことはもう二度としない』、『命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない』という神の二つの約束」であり、聖書がこの約束を前提にアブラハムに始まる人間の歴史を語り始めていると指摘します。それゆえ、もはや自然災害にしても人災にしても、私たちが経験するあらゆる苦難は、「神の裁きではなく、まして神による罰ではないと確信することができます」と結ばれます。
新しい年、聖書通読を試みる方はまずこの書物により聖書を通読し始めてください。聖書に貫かれる主題を捉えると、いわゆる通読をする機運も高まるでしょう。あるいは、信仰生活を始めて間もない方にも、長らく続けている方にも、喜びの日の中にいる方にも、悲しみの日の中にいる方にも、「聖書通読」をお勧めします。これは螺旋階段のような書物で、それぞれの状況で繰り返し読むことにより神からの救いの深さ、広さを味わい、知らぬ間に以前よりも近く神を思う自らがいることに気づくことでしょう。
最後に、石田先生が最愛の「ライフ・パートナーの摂子」さんに寄り添い共に旅する生活のなかで本書を編まれたと思うとき、これが机上の慰めではなく、時に試練を伴う現実のただ中で、今ここにある神の国を旅する喜びと希望の所在を指し示す書物として、わたしの心に迫ってきます。













