祈りの泉
〈評者〉柴田三吉
病を得た人、苦境に陥った人に、見舞いや励ましの言葉を送るとき、文末に「……を祈っております」という言葉をたびたび使います。常套句ではなく、心からそう願ってのことですが、こう書くたび私は、いったい誰に向かって祈っているのだろうという思いを抱きます。私は信仰の門の外に立つ者なので、神仏に向けてではありません。けれど祈りの気持ちは迷いなく湧いてきます。人は誰でも自分を超えた何かを心の内に持つのでしょう。その祈りこそは、人が人である証として心の奥深くから湧き出る、最も美しい泉であるように思います。
本書は前半を旧約聖書、後半を新約聖書における光と影とし、一六名の詩人(中山直子・内藤俊宏・古田嘉彦・木村淳子・東延江・中村不二夫・岡野絵里子・樋口忠夫・井上英明・柴崎聰・斎藤菜穂子・時澤博・佐野亜里亜・川中子義勝・坂井信夫・新延拳)が前後の章に作品を書き、後半には大鹿理恵氏が加わり、三三篇の構成となっています。
ここでは、旧約・新約聖書のなかから任意の一節が選ばれ、それらを詩として語り直していきます。「光」と「影」を結び付けたことで文学の視点が鮮やかに示され、そこから人間の不完全さ、不遜、弱さへの「問い」が表れてくるところに興味を覚えました。問うことが文学の出発点であるからです。
旧約聖書の章の巻頭、中山直子「自由になりたい─エバの夢」は、人の自由とは何かという直截的な問いを孕み、中村不二夫「ノアの忘れもの」は、方舟に乗れなかった者とは誰かと問いかけています。そして、聖絶されたエリコを描いた井上英明「亜麻の束」は、現代社会が陥っている危機に触れ、それに抗い得ない自身の弱さを見つめています。
〈聖絶されたのは偶像と偶像により頼む心 思えば私の街は偶像に満ち溢れ 私もまたこの街に縋り付いている この街に聖絶が訪れる時 私は身を隠す亜麻の束を見つける事ができるだろうか〉と。
新約聖書の章では、旧約聖書が孕む闇(神との契約の厳しさ)に対して、問いの質が変わり、光が闇を包み込むような明るさへと進み出ているように思います。キリスト教徒にとって、神の子イエスとの邂逅がよろこびの源泉であることを示しているからでしょう。
大鹿理恵「さまよう影 待ち続ける光」は、抒情豊かな言葉で〈影と光は/やがて 一体になり 伸び広がり/うす暗い不安に苛まれていた淡い光をも/飲み込んだ〉と書き、これはこの章全体の雰囲気を表しています。また岡野絵里子「パンを焼く女たち」の、大地の豊穣を支える女性性を描いた作品にも光の横溢を感じました。
私は聖書を文学として読んできた者ですが、本書もまた文学が問い続ける「人間における光と影」、そして「愛の物語」として読みました。〈愛は交換ではなく、贈与であり、さらには純粋贈与である〉という、文化人類学がもたらした言葉に導かれながら。人と人を結ぶのは、その顕現である祈りの共有でしょう。祈りの泉は地下の水脈で?がっていて、問う場所から一歩進み出たところに、豊かな生を紡ぐ道が開かれていくのだと思います。本書がそうしたかたちで多くの人に読まれることを祈っています。
柴田三吉
しばた・さんきち=詩人