聖書と真剣に向き合う人たちに推奨する
〈評者〉並木浩一

聖書学と信仰者
信仰者は批判的聖書学とどう向き合うべきか
M・Z・ブレットラー、D・J・ハリントン、P・エンス著
魯 恩碩訳
A5判・219頁・定価2970円・新教出版社
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聖書学と信仰との関わりを意識して、旧約聖書のありようを論じた書物が出版された。十九世紀に批判的聖書学が出現して以来、聖書学と信仰との間に緊張が生まれた。イエスの意味づけを扱う新約学ほどではないが、旧約学でも両者の間には緊張があり、信仰者は何らかの調停を行っている。たとえば、天地創造の記事。進化論や天文学の知識を持つ信仰者はそれに客観的な権威を認めないが、創造信仰の意味は認めるであろう。このように信仰者の多数は知識と信仰との間で適当に折り合いをつけている。
しかし両者の関係は、信仰に素直に生きてきた若者たちには深刻である。彼らは聖書の権威を揺さぶる批判的な聖書学に出会って困惑し、悩む。本書の訳者は第一級の旧約学者であるが、かつて若き日に留学先で批判的旧約学の授業を経験して衝撃を受けた。今は教師として、かつての自分が味わった同じ動揺を学生たちから聞くという。そのことが本書訳出の動機の一つである。
日本では科学的な知識に抵抗する信仰者は少数である。しかし米国では福音派の勢いが強く、かなりの人が聖書の権威に挑戦するような聖書学の営みや科学的認識を退ける。その状況を背景にして、本書では米国のユダヤ教、カトリック、プロテスタントを代表する聖書学者三名が旧約聖書の性格を徹底して論じる。彼らは順にそれぞれの聖書観を述べ、ほかの二人が熱い応答を返して三回に及ぶ。これは聖書学と信仰との生産的関係を築くための貴重な対話である。
彼らの立ち位置に関わる発言を要約しよう。ブレットラーによれば、ユダヤ教は時代遅れのトーラー(五書、とくに律法)を書き換えることなく、解釈によって更新する。聖書学の五書批判もその解釈活動の一つと見なされ得る。権威はテキストではなく、解釈にある。
ハリントンが所属するカトリック教会は、聖書を「人間の言葉で語られた神の言葉である」と見なしている。聖書は神の言葉であるから霊的な解釈を重んじるが、それが人間の言葉である側面については批判的聖書学を受け容れる。万一、聖書の解釈が争われるときには、教皇と司教たちによって構成される教導機関が権威ある解釈を下すという。教会の秩序と伝統が聖書解釈の砦となる。
エンスはプロテスタントの聖書観を展開する。ルター以来、教会を忠実に証ししているか否かの最終裁定者は聖書であり、信徒は教会の伝統に依拠できない。この「聖書のみ」の原則は聖書学を促進した。しかしそれは同時に聖書学の世俗化への扉を開き、それによって聖書の信頼性と統一性とが脅かされるに至った。エンスはこのような聖書のありさまを、「真の人間であると同時に真の神である」というイエスの「受肉」との類比によって理解する。議論は新約聖書に越境せざるを得ない。訳者もそうであるが、私はエンスの受け止め方に共感する。私も旧約学を開始した大学院時代には、聖書の証言と歴史的現実との落差を知って考え込み、人の言葉によってご自身を証しする神の自己卑下に思いを馳せた。
読み応えのある書物である。聖書と真剣に向き合おうとする人びとに勧めたい。聖書が置かれている状況を学び、対応の仕方への示唆を本書から得るであろう。