神義論は現実の生活とどんな関係があるのか?
〈評者〉芳賀 力
苦しみと悪を神学する
神義論入門
M・S・M・スコット著
加納和寛訳
四六判・364頁・本体3600円+税・教文館
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「今日一日を終えるにあたり、神義論は『現実の生活』とどんな関係があったと言えるでしょうか。その日に経験した苦しみを少しでも良くしてくれたでしょうか」(218頁)。神義論はしばしば私たちの生の現実を遊離した空虚な議論のように思える。しかし議論を放棄したとしても、苦難の現実が消えるわけではない。そして本来の神義論は切実な信仰の問いから発せられる実存的なものなのである。
本書は特定の神義論だけを正しいとしたり、勧めたりするものではなく、できるだけ公平に論点を紹介しようとするものである。著者によれば、今こそ神学が神義論について語る時であり、神学が神義論を取り戻すべきなのである。主要な神義論の試みが六つ取り上げられる。
第一の自由意志による擁護論は、古代ではアウグスティヌス、現代ではプランティンガによって代表される。神は人間を自由な存在として創造した。その自由を人間が誤って用いたことによって悪が生じたとされる。自由意志がないと世界は完全とは言えない。自由ではない生き物しかいない世界より、自由な生き物がいる世界の方が良い。神が悪を許す理由がここにある。
第二のソウル・メイキング神義論はジョン・ヒックに代表されるもので、痛みや苦しみは魂を修練し、道徳的、霊的、知的な成長を促すために必要なものだとされる。神は初めから完成された人間を創造したのではない。私たちはまだ創造の途上にいる。ヒックはこれをエイレナイオス型と呼んだが、スコットによればそれは誤りで、むしろ普遍救済説に立つオリゲネスに近い。
第三のプロセス神義論は、神の超越性を否定する。神は被造世界に内在し浸透している原理である。そこから苦しみを感じない全能の神も却下される。神は愛であり、被造物と共に苦しむ存在なのである。
第四の十字架の神義論は、ボンヘッファーやモルトマンに代表されるもので、第二次大戦下ホロコーストの衝撃的経験が影響している。長い間神学は神の不動性、不受苦性というギリシア的な神概念の支配下にあった。しかし聖書の神はパッション(情熱、受苦)の神である。神が受苦不能であれば、神はまた愛することもできない。ゴルゴタとアウシュヴィッツは神性の深みにまで達している。これは、ぬかるみの中で苦しむ者に大きな慰めを与えるものだが、そうなると神を私たちと一緒にぬかるみに投げ込んでしまうことにならないかどうかという疑問が残る。
第五の反神義論は、理論的な神義論の無力さと失敗を指摘し、実践的な方向に舵を切る。なぜ悪があるのかではなく、どう悪と戦うかが重要とされる。しかし理論なしに実践はない。
第六の終末論的神義論は、現世での不協和音は来世において協和音に変わることを期待する。隠れた神の神秘を今は重んじるべきなのである。
原著の題名は「神義論の[様々な]道」である。それを紹介することは意味のないことではないが、やはり理論体系の羅列という印象を拭えない(しかも道は他にもある)。ぜひ著者の「我ここに立つ」という直球勝負の神学的確信を聞きたく思った。その方がかえって(賛否を含め)議論が深まるのではないだろうか。訳者の労を多としたい。
芳賀力
はが・つとむ=東京神学大学学長
- 2021年9月1日