平和の福音を澄んだ響きで届ける説教
〈評者〉佐々木潤
情熱あふれる大きな本や小さな本を次々と生み出してきた近藤勝彦先生が、一昨年には超大作『キリスト教教義学』上下巻を放ち、昨年にはまじめでのびやかな『わたしの神学六十年』を打ち明け、そしてこのたびエフェソの信徒への手紙の講解説教集をまとめた。
そうか。エフェソ書だったのか。
そういえば、教義学の下巻末の聖句索引を見ればわかることなのだが、教義学の中に、福音書からの引用がダントツに多いのは当然としても、ほかではエフェソ書からの割合が突出している。
バルトにとってのローマ書がそうだったように、取り組んだ聖書講解がその後のその人の神学を方向づけるものである。近藤教義学は明らかにエフェソ書を通気口として呼吸している。
その証拠に、見よ、アナケファライオーシス(万物の再統合)、三位一体の神、キリストの支配、聖徒の堅忍、ユダヤ人問題、キリストの内住、キリストの遍在、キリスト者の完全、キリストの兵士、戦闘の教会、などなど。教義学の中の言葉が、説教の中にポンポン飛び出す。
それなのに説教は難しくない。聖書の言葉がまっすぐ澄んだ響きで届いてきて、私たちを広いところに連れて行く。その壮大さを信徒の心に平易かつ正確に伝えるために、あの教義学の営みもあったのである。
弱体化と分裂、齟齬と軋轢、敵意という隔ての壁に苦しむ、その渦中の双方のためにキリストは来られた。十字架の中で、引き裂かれていた者たちが一体とされるとき、それはキリストの平和の福音に生かされつつ告げ知らせる教会、伝道する教会となるだろう。
途中から「コロナ」が言及され始める。「あの時期」に突入したのである。終盤には「ウクライナ」が出てくる。始まったのである。オンラインでの礼拝者たちにも「一緒にアーメンと応えてください!」と呼びかける説教の言葉の向こうに、キリストが限りなく大きなみ腕を拡げて、集まることができないまま一致を探ってつながりを求めるみんなを抱え込んでいてくださるお姿が見えるのである。
ところどころ「五〇年前の話」も出てくる。評者が初めて出会った時から風貌が全く変わらず不思議にも老いない先生も、いつのまにか地上でそれなりの年月を経た。「カール・バルトのように神学し、ビリー・グラハムのように伝道する」とのかつての抱負を大言壮語とせずそのとおりに歩んだ人の、力強くほがらかに語る福音の音色を収めたこの記録は、二〇一九年五月一九日から二〇二三年二月一九日の銀座教会の礼拝の記録であり、私たちの時代の記録でもある。
エフェソ書の高峰である三章を説く数回にわたる説教のうち、「内なる人を強くしてくださる神」では、私たちの心の中に住んでくださる「キリストの内住」を語り、次の説教「キリストの広さ、長さ、高さ、深さ」では、私たちみんなをその中にいさせてくださる大きな「キリストの遍在」を語る。この二つが圧巻である。と共に、終わりからひとつ前の説教「信仰者の消息」に出てくるティキコの姿もいい。サウイフモノニワタシモナリタイ。
佐々木潤
ささき・じゅん=日本基督教団武蔵野教会牧師