ユダヤ教徒とキリスト教徒を神の愛で繋ぐ説教集
〈評者〉西原智彦
この説教集第8巻には、日本イエス・キリスト教団の大頭眞一牧師が明野キリスト教会で語った説教がまとめられています。このシリーズは、創世記前半を扱う第一巻「アブラハムと神さまと星空と」から始まり、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記へと続く「モーセ五書」の説教集シリーズで、今回の第8巻は、その最後を締めくくる申命記16~34章の12の説教で構成されています。大頭牧師とは、福音主義神学の立場から性的少数者の課題に取り組む団体「ドリームパーティー」において共に活動しています。「あの温かい人柄と、情熱的な言動はどこから生じているのだろう?」と尊敬の念を抱いていました。
今回、光栄にも書評の依頼を受けて説教集を読み、「ああ、聖書に対するこの接し方に秘訣があるのだ」と納得し、聖書との付き合い方について大きな示唆を得ることができました。
最初に、メシアへの系譜となるユダヤ人と、彼らへの啓示の書としてのモーセ五書への敬意にあふれています。キリスト教徒は、モーセ五書を始めとした「タナハ」(旧約聖書)を、ユダヤ教徒とは異なる視点で解釈する「ナザレ派」として台頭しました。長年ユダヤ人が待ち望んでいた油注がれた王であるメシアが、イエス・キリストだと信じます。残念ながらA.D.2世紀以降のキリスト教徒のモーセ五書への接し方は、反ユダヤ的であり、多くの教父たちはタナハをユダヤ民族のルーツの書から、キリスト教徒のルーツの書として読み替えました。しかし大頭牧師は丁寧に申命記の意味をユダヤ人たちの視点で理解しています。イスラエルの三大祭りや、逃れの町を一足飛びにキリスト教的な予型的解釈に持ち込むことはしません。イスラエルの神がキリスト教徒の神でもあるという謙遜さの中で、「神に愛されているあなたがた」(33頁)という呼びかけによってユダヤ教徒とキリスト教徒を結ぶ説教姿勢に心打たれます。
次に、現代日本人がモーセの律法の言葉を自分のこととして受け止められる温かい視座を与えています。しばしば律法に関しては、「誰も守りきれる人はいないので、信仰のみで救われる」とか、「律法を守ることは、真の信仰者であるバロメーターだ」といった理解に傾く場合があります。大頭牧師は律法の文字の先に神の「み思い」を見出すことに力点を置いて、このように語ります。
「なんで神さまはそれをしちゃいけないとおっしゃるのか、神さまが愛しなさいと言われるのはどうしてか、その根本にあるご人格というか、ご性質というか、そういうものに近づけということなんです。」(141頁)旧約の神も新約の神も同じ神であり、その神の胸に抱かれて生きよ、という語りには、思わず飛び込んで行きたくなります。
最後に、申命記のお言葉からイエス・キリストのあがないを絶妙に、多様な手法で語っています。動物犠牲の規定からキリストの死による罪の赦しを語り(92頁)、聖絶という最も語り難いテーマから、十字架による悪の力への勝利を語り(81頁)、神の律法を成し遂げられない傷をキリストが十字架で負われた傷と重ねて癒やされる感化を語ります(127頁)。
律法の文字面の理解で終わらず、その真意を神の愛から受け取り、読者を神のかたちへの変貌へと誘おうとする説教は、言語行為論と物語神学を見事に融合させた、真に力ある神のことばの語りです。実に多くの「焚き火仲間」がこの説教集シリーズ作成を手伝っておられること自体がその力強い証しとなっています。
西原智彦
にしはら・ともひこ=日本バプテスト教会連合 金剛バプテスト・キリスト教会牧師