一方的に教え込む教育ではなく 信じて待つ非暴力の教育を
〈評者〉小林よう子
「非暴力の教育」と聞いて、子どもを殴ったり虐待のようなことをしない教育のことかと思って納得してはいけません。もちろんそんなのは「教育」とは言えないのですが、「暴力」とは決して肉体的なものだけを指すのではないのです。
「キリスト教保育」の幼稚園に関わるようになってある時、気づいたことがあります。この幼稚園で初めて働くことになった教師たちが(学校を卒業したばかりの新任か、経験者であるかを問わず)、最初につまずき悩む場面があるのです。真面目で熱心な教師であればあるほど悩むのは、自分の指示に素直に従ってくれない子どもの存在です。「さあ、お片付けをしましょう」と言うと「いや」、「今からゲームをするよ」と言っても「しない」、給食の時間になったのに「食べない」。教師はなんとかしてみんなと同じように行動してほしいと願って、説得したり、なだめすかしたり、懸命に努力します。でも、子どもは大抵、がんとして言うことを聞いてくれないのです。
子どもは彼らなりに「いや」と言う理由があります。けれども教師が聞いてくれなくて、自分の気持ちを無視してただ指示に従わせようとする。それは「暴力」なのです。
著者の小見のぞみさんは、自らの歩みを振り返りながら、長く関わってきた「キリスト教教育」を「非暴力の教育」として考えていきます。それは、教師が力をふるう教育とは異なるもうひとつの教育です。
著者が学び、影響を受けたたくさんの人たちの著作が紹介されていきます。二千年前に子どもを一人の人格として尊い価値を認め、最も小さい存在を受け入れるよう促したイエスの教えは、当時斬新すぎて理解されないまま、長い時が過ぎてしまいます。非暴力のキリスト教教育の原点となったイエスについて、聖書から深く分析したのがハンス=リューディ・ウェーバー『イエスと子どもたち』です。
西欧社会では十七世紀になって、ようやく近代教育の必要性が考えられるようになりました。子どもは大事に保護され、教育を受ける権利があると考えられるようになってから、今度は十九世紀に「キリスト教養育」という捉え方を提示するホーレス・ブッシュネルが現れました。「教える」のではなく、愛されて育つ「今」を大事にすることを指摘します。
続いて、信仰を育てる共同体としての教会について考えるJ・H・ウェスターホフ『子どもの信仰と教会 教会教育の新しい可能性』、教育が行われる空間がどのような場であるかを考えるP・J・パーマー『教育のスピリチュアリティー 知ること・愛すること』が紹介されます。
そして、日本で初めて子どもの権利を提唱した田村直臣について。田村直臣についての研究は、著者がライフワークとして取り組んできたことでもあります。日本で子どもについてこのように考え、生涯を通して働いた人がいたことが歴史の中から掘り起こされ、知らされることは感動です。
最後に、「力」には暴力的な力であるforceと、長所や拠り所となるstrengthの二つがあることがまとめとして語られます。キリスト教教育とは、言葉でも行いでも暴力的な力を決して用いず、生きるための力を育む教育です。愛する力、平和を生み出す力、他者と共に生きる力を育てるために。
つまずいている教師に、幼稚園では「子どもが『いや』と言う時には、まずその気持ちを受け止めよう」と伝えます。そして、子どもが次に何をするか、自分で決断して動き出すことを信じて待とう、と言います。「待つ」ことには、たいへんなエネルギーがいります。でも、教師が自分の「いや」を受け入れてくれたとわかると、子どもは動き出すのです。生きる力は、こうして育っていきます。
教師が一方的に生徒に教える教育とは違う「非暴力の教育」についての理解が、この本によって広がることを願います。
小林よう子
こばやし・ようこ=日本基督教団八戸小中野教会牧師