一九八九年に日本語版が出版された『旧約新約 聖書大事典』と、本来その付録であった『聖書地図』が、約三五年ぶりに復刻出版された。当時、駆け出しながら編集委員会の一員として編集作業に携わった者として、感慨無量の心境である。
『大事典』の方は、わが国では初(にして未だに唯一)の、歴史的批判的方法に基づく「聖書学的」な性格の本格的な聖書事典であり、ドイツ語圏で定評のあるロスト/ライケ編『Biblisch-Historisches Handwörterbuch』(四巻、一九六三―七九。略称BHH)を底本としたもので、原著執筆者には旧約ではヴェスターマン、カイザー、コッホ、新約ではヴィルケンス、マルクスセン、シュミットハルスといった、当時のドイツ語圏で最先端の聖書学者が綺羅星の如く名を連ねているだけでなく、アメリカのブライトやメツガー、フランスのジャコブ、日本の関根正雄、前田護郎など、国際的な各分野の第一人者たちも参加している。日本語版担当者も、編集代表である荒井献、石田友雄両先生から、編集実務を務めた(当時)若手の佐藤研氏や筆者に至るまで、この時点での日本の聖書学界のまさに「総力を結集した」陣容であったと言えるであろう。
日本語版の大きな特色は、単なるドイツ語原著の邦訳というだけでなく、当時の聖書学の著しい発展と変化を顧慮して、原著の監修者および出版社の快諾を受けて、日本語版の編集委員や項目担当者の判断で自由に手を加えてあるということである。したがって、本書の項目には四つの異なる性格のものがある。⑴原著項目の日本語訳(例えば「詩篇」の項)、⑵原著項目を日本語訳したうえで、日本人研究者が補筆したもの(例えば「パウロ」の項)、⑶原著項目を採用せず、日本人研究者による項目に差し替えたもの(例えば「ローマ人への手紙」の項)、⑷原著に項目がなく、日本人研究者が新たに執筆したもの(例えば「ヤハウェ」の項)。なかには、原著項目を日本語訳したうえで、日本語版担当者が原著項目の不十分さを批判し、補筆改訂しているものさえある(例えば「マルコ福音書」の項)。したがって、ドイツ語原著第一巻出版後の約二五年間にわたる国際的な聖書学の発展を踏まえて、学問的に一九八九年の時点までアップデートされているわけである。
このような破格ともいえる自由な編集活動が可能になった背景には、日本の聖書学に対する原著編集者、出版社の信頼と評価があったことは言うまでもない。初版発行以来、「圧倒的な信頼感」(本書「帯」)を伴って研究、釈義、説教、教育などで必携書として広く愛用されていたこの聖書事典が、装丁も新たに、より手ごろな価格で復刻出版されたことは喜びに堪えない。B5判からA5判に縮刷(約八二%)されており、老眼には多少つらいが、より軽くなったので手首にはよいだろう。
なお、辞書の常で初版には誤植が多く見られたが、今回の復刻は訂正済の第三版によっているので安心である。その他の点で内容上の変更、訂正はない。もちろん、この間の約三五年間の聖書学の進展と変化には著しいものがあるが、それらを反映させるためには「改訂」程度では済まず、まったく新しい聖書大事典が必要である。あくまで「古典的」なものとして、元の形のまま復刻されたものと受け止めるべきであろう。もちろん、聖書研究の「友」として「現役」でも十分通用する。
『聖書地図』の方は、前述のようにもともとは『大事典』の付録であったが、好評につき、一九九〇年に解説と索引を加えて別売されたものの復刻版で、パレスチナ歴史地図(南北2枚)、パウロ伝道旅行地図、エルサレム歴史地図の4点、および解説・索引からなる。今でもわが国で最も詳しい聖書歴史地図であり、こちらの方は元通りのサイズである。
山我哲雄
やまが・てつお=日本旧約学会前会長