虚心に聖書を読もう、物議をかもすことになっても
〈評者〉早坂文彦
わたしが所謂「青野神学」に興味を持ったのは、マインドフルネス瞑想中にわたしに起こった出来事に由来する。
当時わたしはある人との関係を酷く悪化させ自己嫌悪に苛まれていた。その心の痛みを身体感覚として観察していたとき、突然イエスのイメージが現れ、わたしの痛みに覆い被さったのだ。そのイエス像はわたしの悍ましい痛みを抱きつつ、一つ方向を指さした。「これはわたしに任せて、あなたはあなたの道を行け」と語っていると直感した。復活のイエスは苦しむ神としてわたしの中にいる。そう信じようと決めた。
以来、復活のイエスはわたしにとって「十字架にかかったままで復活した方」となった。この体験が青野さんの神学への強い関心となり、この度書評の光栄に浴することになった。実に不思議なめぐりあわせに驚いている。
青野さんは、「虚心坦懐に聖書を読むと、どうもこれまで言われてきたようなこととは違うことが書いてあるようだ」という発見を、読者に体験させたいのだろう。「贖罪論」にせよ、「処女降誕」にせよ、「逐語霊感説」にせよ、原理主義的な聖書の読みはキリスト教をカルト宗教にする。青野さんの鳴らす警鐘に教
会は身を正すべきである。
しかし虚心に聖書を読むのは諸刃の剣でもある。この点、許されるなら青野さんと論じてみたいことが三つほどある。
①自分が理解できるようにするという姿勢は虚心に聖書を読むことか。こちらの前提を読み込むことにならないか。青野さんは「法則」という言葉を使うが、先ず以て古代人が考えたように考えてみる「観察者」の目線から始めるとするならば、古代人が信じたものの中にあるのは、因果律*ではなく、宇宙の一挙手一投足を今この瞬間にもその手で統御しつつ、断末魔の苦しみを今なお生きる生身の神ではないのか。
②虚心にパウロを読むなら、再度「贖罪論」への舵切りが必要ではないか。パウロによれば肉(サルクス)は苦しみを回避する部分的人間であり、体(ソーマ)は苦しむことのできる全人的人間である。パウロが肉のイエスを語らないのは、自分の中に苦しむ神として現臨するイエスを信じたからであり、自分の体が寸分違わずイエスの体だと信じたからだ(ガラテヤ2・20)。ここに苦悩の主客転倒という贖罪論復権への展開がありはしないか。
③二〇〇〇年になって行動心理学はスキナー以来未完成だった言語機能の説明を「関係フレーム理論」として完成させた。これによれば人間の思考や感情は己の意志の及ばぬ客観的実在であり、選択する意志のみが人間に委ねられた自由と責任となる。そうなると聖書の「幻」は俄然客観性を帯び、単なる主観とは捉えられなくなる。ここには古代的世界観に通じるものがある。さらにその道具的言語理解は聖霊の内的証示を実に科学的に説明することをすら可能にする。この観点で聖書の高等批評を再構築する課題があるように思うが、いかがであろうか。
* 因果律はあくまで仮設であり、それを根拠づける証拠は見つかっておらず、科学者たちはそれを否定する事実のあることに今もって頭を悩ませている。
早坂文彦
はやさか・ふみひこ= 日本基督教団西仙台教会牧師、臨床心理士