
高校生の時、私は、教会に通い始めた。勧められたのではない。自分から行きたいと思った。教会のことは何も知らなかった。ボンヤリ、薄暗いカテドラルを想像していた。
案内された教会はまったく違った。米軍払い下げの廃材を組み合わせたバラック小屋のような教会。不思議なのだが、高校生の私は、その「手作り感」が気に入った。伝統も権威もない。名もなき人々の純粋な信仰の群れ。私は、福音書に登場する「イエスに寄り添う人々」に出会ったように感じた。
自分も役に立ちたいと思った。そして、自分が必要とされているように感じると誇らしかった。承認欲求を満たしてもらえたということなのだろうか。米国の宣教団体を基盤とした「福音派」の教会であった。
その後、十数年、私の暮らしの中心には、教会があった。しかし同時に、教会に対する違和感も大きくなった。何か違う。そう感じながら、何が違うのか、よく分からなかった。
教会の人々は伝道や宣教を大切にした。キリストの福音を伝える。神さまに喜んでいただきたいなら、福音を伝えること。社会をよくしたいと思うなら、たとえ回り道に見えても、福音を伝えることが、結果的には、最も確実な道である。そうした説教をたくさん聞いた。
今から思えば、社会の不正に対する批判の視点が弱かった。困難を抱えた人たちへの奉仕も弱かった。そして何より、そこには、静寂の中に自らの内面と向き合う視点が欠けていた。
それから半世紀、私はずいぶん遠いところまで歩いてきた。そう思うたびに、孫悟空の話を思い出す。地の果ての岩に自分の名を書きつけてきた。そう自慢しながらお釈迦様の指を見たら、自分の名が書いてある。すべてお釈迦様の手のひらの中だった。
すべて神の御手のなかの出来事なのだろう。
(にしひら・ただし=上智大学グリーフケア研究所・副所長)












