「君は時計の『チック』と『タック』の音、どっちが先だと思うかね?」。
33年前、赴任していた教会の主任牧師・神学校旧約学教授の西村俊昭先生からそう尋ねられました。日本聖書神学校を卒業して3年、日本基督教団正教師になったばかり、30歳未満の私には、質問の意味すら分かりませんでした。その時、フランク・カーモードの『終わりの意識 虚構理論の研究』(岡本靖正訳、1991年、国文社)を紹介されました。この本は、聖書学ではなく英文学、批評学の本です。歴史的批判的方法ではなく、構造主義的方法の旧約研究者であった西村先生は、勉強不足を感じていた私に、学びのヒントを下さったのです。
本書「Ⅱ虚構」においてカーモードは、ギリシア語クロノスとカイロスを用い、カイロスは、クロノスの中で区切られた時、意味付けがなされた時間とします。文学作品の構築は、虚構として意味付けされたカイロスの中で、時間のプロットを用いてなされるのです。カーモードは、その最も簡潔なものを、時計の音「チック・タック」と例えます。「チック・タック」は、意図的に意味付けされた区分、意図的に成立した時間なのです。本来ならば、「チック・タック」も、「タック・チック」も同じだが、意図的な意味付けによって差異があるとされる、それをどう思うか?それが冒頭の質問の意味でした。
現代は、社会構造の複雑化に伴い、歴史という概念を用いて、この時間の意味付けが前面に出すぎているのかもしれません。歴史を学ぶことは大切です。しかし、「チック・タック派」と「タック・チック派」がその絶対的正当性を主張する限り、両者の和解は困難でしょう。
『聖書』も意図的に意味付けられた「チック・タック」の一つです。だからこそ、キリスト者はその意味付けを超えた存在を信じていることを、『聖書』から学ぶのだと思います。
(すがわら・ゆうじ=東京聖三一教会牧師、日本聖書神学校教授)
菅原裕治
すがわら・ゆうじ=東京聖三一教会牧師、日本聖書神学校教授