高校生のとき、牧師の息子であるという友人を通してキリスト教と出会い、その未知の世界に関心を抱きました。すぐに求道と言えるものが始まったわけではありませんでしたが、読書家の友人の影響で本を読むことのおもしろさを知るようになり、それは読書の習慣がほとんどなかった私にとって、やがて聖書という書物を読むようになるための備えとなりました。
地元の岡山から東京の大学に進学してすぐの頃、在籍していた学部の教授で歴史家の阿部謹也氏の『自分のなかに歴史をよむ』という小さな本を読んだことが、キリスト教にまた一歩近づくきっかけとなりました。中学生のころにカトリックの修道院の施設で生活していたことがあったという阿部氏は、大学時代に恩師から「それをやらなければ生きてゆけないというテーマ」を探すように言われ、ドイツ中世史の研究者となったということでした。
はたして自分には、それがなければ生きていけないと言えるほどのものがあるだろうかと考える日々が続く中、東京での学生生活を通して次第にキリスト教が心の中を大きく占めるようになっていることに気づきました。大学三年の冬、それまで断片的に読んでいた聖書にあらためて向き合ってみようと、岡山へ帰省する新幹線の中で新約聖書をはじめから読んでいきました。すると、高校時代の出会い、本を読むという経験、考え方や心の変化、そうした自分のなかのささやかな歴史にも、この聖書の神が生きて働いておられたのではないかという思いに導かれました。それは、これがなければ生きていけないというよりも、この神に生かされてきたのだという実感でした。翌年、友人の父親から洗礼を受け、また新たな自分の歴史が始まりました。
あれからおよそ三十年。今でも聖書を読んでいると、あの日の新幹線の中にいるような気持ちになります。
(いしはら・ともひろ=日本キリスト改革派東京恩寵教会牧師)
石原知弘
いしはら・ともひろ=日本キリスト改革派東京恩寵教会牧師