言葉の無力さ、限界のようなものを感じるときがある。突然の不幸に適切な言葉などあるのか。一時的に言葉を失ってしまう。結局のところ、この世界の様々な不条理を目の前にしたとき、言葉で立ち向かうのはあまりに無謀な試みのように思える。
しかし、言葉は、不思議な力を持つ。空腹を満たすパンとは違って、私たちの魂を潤し、生きていく糧となる。弱々しい言葉でさえ、からし種のように、私たちのうちに根を張り、新しい命を支える木へとやがて成長する。
このような可能性を秘めた「生かす言葉」はどこに現れるのか。多くのキリスト者は「聖書」と、答えるであろう。私もこの答えに強く共感する。しかし、使徒パウロが、アテネでの演説の中で「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒言行録17章28節)と、ある詩人の言葉に注目したように、「生かす言葉」はあらゆるところでも見出すことができるように思う。
こうして生かす言葉を求めて、私は本を読む。気に入った本を読み終えると、付箋だらけになっていることが多々ある。心に響く言葉、ひっかかる言葉、惹かれる言葉、日々立ち帰りたい言葉、気になる言葉が綴られているページに色とりどりの付箋を貼っていく。読了した本を上から眺めると、鮮やかな色がページの間から顔を出している。
「言葉は…読まれることによって命を帯びる」(若松英輔『悲しみの秘義』)。言葉を読むことによって、印刷されたページ上の文字がよみがえる。その瞬間、「ここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24章6節)と、天使たちの声が響いてくるようである。大切につなぎ合わされてきた数々の言葉を読むとき、それは生きる言葉として、私を生かす。
遺された言葉、そして未来からやってくる言葉。歴史の中に埋もれている数多くの生かす言葉を、私の魂は探し求めている。そうして、付箋だらけの本が私の本棚にもう一冊並ぶのだ。
(ネルソンはしもと・ジョシュアりょう=四国学院大学准教授)
ネルソン橋本ジョシュア諒
ねるそん・はしもと・じょしゅあ・りょう=四国学院大学准教授