大いなる「しかし」の書としての第一ペトロ書
〈評者〉吉田 新
「釈義とは何かを知りたければ、まず、街の通りを歩いてみなさい。その通りのパン屋に行って、店で売られているパン一つ一つをよくご覧なさい。その後、街全体を見渡せる丘に登り、そのパンをもう一度、見てみなさい。」
ドイツの大学に留学していた時、聖書釈義を講義していた教員にこのように言われた。釈義家は原語の一つ一つの語釈のみに拘泥してはいけない。文脈、書物の意図、筆者や読者が置かれていた状況等々、細部に目を凝らしつつ、全体を俯瞰する視点も併せ持つ必要がある。本書を読み、このことを著者を通してもう一度教えられたように思えてならない。
福音書やパウロ書簡と比べ第一ペトロ書は読まれる頻度がそれほど多くはないだろう。しかし、迫害という現実を目前にし、初代キリスト教徒らが自らに降りかかる苦難をいかに捉え、それをどのように乗り越えていくべきかを教える貴重な文書の一つである。疫病や戦争など、様々な危機的状況と向かい合っている私たちにとっても、示唆に富んだ手紙である。
本書には石川学氏が二〇一九年十二月から二〇二〇年四月まで主日礼拝で語られた説教と、その準備のための釈義が収められている。一節ずつ原文から丁寧に読解した考察と、それを踏まえた説教テキストが併記されているのは有意義である。説教者が聖書テキストから何を読み取り、それをどのように分析し、み言葉の説き明かしへと生かしていくべきか、という道筋が明らかにされるからだ。本書の釈義の部分は、礼拝前に持たれていた聖書の学びの時間で、参加者と分かち合っていたとのことである。「説教は説教者と会衆が共同で形作るものである」と本書のあとがきで述べられており、説教者として著者の誠実さがこの言葉に表れている。
釈義の部分では従来の見解とは異なり、独自の解釈を提示する部分もあり、とても興味深い。とりわけ、五章八−一一節に関する釈義と説教では、著者の視点の広さと深さを感じさせられた。一〇節の冒頭部分には「しかし(原語ではデ)」が記されている。「これほど強力な一音はありません」と語る著者は、この一音に第一ペトロ書全体の使信を読み取り、キリスト者のあるべき生き方を説く。第一ペトロ書の送り手は、困難な現実を語ったすぐ後に、「しかし」と一語付すことにより、その先にある未来を指し示している。この大いなる「しかし」があるからこそ、キリスト者は襲いかかる試練に打ちのめされることなく前に進むことができる。「しかし」という言葉は、普通は読み落としそうな一語である。だが、ここから大いなる「しかし」の書である第一ペトロ書が、読者に語りかけるメッセージを著者は正確に読み取っている。まさに、通りの店の軒先に掲げられた品物を確かめつつ、その街全体を把握できる釈義家としての著者の実力が遺憾なく発揮されている。
また、支配者に都合良く使われてきた歴史を持つ二章一七節では、原文にある「敬う」と「畏れる」という動詞の微妙な使い分けに注目する。人々を統治する王のような為政者が跋扈する時代の到来を感じさせる昨今、「畏れるのは神のみ」と宣言する第一ペトロ書の精読が一層求められるだろう。本書はその大切な助けとなる。
吉田新
よしだ・しん=東北学院大学文学部総合人文学科教授