般若心経は日本人のこころをとらえてきた
〈評者〉島田裕巳
牧師の読み解く般若心経
大和昌平著
新書判・312頁・本体1100円+ 税・ヨベル
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仏典の数は膨大で、量が多いものが少なくない。そのなかで、般若心経は異色の仏典でもある。なにしろ262文字しかないからだ。しかも、一般の仏典は、「如是我聞(私は釈迦の説法を次のようい聞いた)」ではじまるが、般若心経にはそれがない。
般若心経のなかに出てくる「色即是空 空即是色」の文句は人口に膾炙している。多くの人は、般若心経と聞いて、これを思い浮かべる。あらゆるものは空である。そこにこそ仏教の本質があると、日本人は考えてきた。
その般若心経をキリスト教プロテスタントの牧師が「読み解く」というのは非常に興味深い試みである。しかも著者は、牧師になると同時に、佛教大学の仏教学科で仏教を学んでいる。生半可な態度で般若心経と相対しているわけではないのである。著者は、牧師として仏典を解読していく試みについて、「私はキリスト教の牧師としての確信は決して譲ることなく、般若心経の本文を尊敬をこめて読み解いてきた」と述べている。
キリスト教の教えと仏教の教えは根本的に異なるものであり、両者は対立する。はっきりしているのは、キリスト教徒でありながら、仏教徒にはなれないことである。
では、著者はどのような姿勢で臨んでいるのだろうか。また、なぜ牧師でありながら、仏教を学び、般若心経を読み解いていく必要があるのだろうか。
おそらくそこには、日本という社会においてキリスト教の占める位置が関係しているであろう。日本はキリスト教国ではない。キリスト教が取り入れられて500年近くの歳月が流れたものの、信者の数は決して多くはない。人口の1パーセント程度にとどまっている。一方、同じ外来の宗教である仏教は、日本での歴史はキリスト教より1000年長いという点はあるものの、すっかり社会に定着している。どうしてそこに差が生まれたのか。それを理解できなければ、牧師として日本人に福音を伝えることは難しい。
それだけではない。著者は、土着の神道とともに仏教が根づいた日本の社会に生まれ、そこで生きてきた以上、直接間接に仏教の影響を受けている。それは、こころのありように多大な影響を与えてきたであろう。
そうしたこころを持ちながら、キリスト教を受け入れるとはいかなることなのか。また、本当にそれは可能なことなのか。著者が神学校の卒論で、「聖書における心の概念」というテーマを選んだ背景には、そうしたことがあるはずだ。
日本人のこころについて考えるには、こころのあり方を問題にする般若心経ほど格好のテキストはない。
しかし、神という究極の有から出発するキリスト教と、すべてを空としてとらえるこころから出発する仏教とは根本的に対立する。その対立をどう止揚していくのか。本書は、その難問に対する著者の格闘の軌跡であるとも言える。
そこから見えてくるのは、一方では同じ宗教としてのキリスト教と仏教との共通性である。しかし同時に、もう一方では、両者の根本的な異質性が浮かび上がってくる。
その異質性をいかに乗り越えるのか。著者が空を説く般若心経を読み解いてたどり着いたのは、パウロのこころのありようだった。パウロはキリストと出会うことで、信仰の本質を知り、自己という枠を乗り越えていく道を見出した。それこそが空ではないか。著者は、そう語りかけているように思える。
島田裕巳
しまだ・ひろみ= 宗教学者、作家