未来へと語り継ぐ本歌を見事に浮彫!
〈評者〉磯部理一郎
言語化により、人は個人も共同体も体験を分類整理し記憶に定着させ、記憶を運用して思索を深め、新たな自己を体系化する。異言語の翻訳により、各言語で構築された情報は共有され、異文化間の省察を経て進化発展し人類共通の知的遺産となる。旧約聖書の七十人訳により、ヘブライ固有の宗教伝承はヘレニズムの坩堝に移入され、ユダヤの体験と思考は個別から普遍に精錬され叡知の新遺産に生まれ変わる。民族神(
)は世界神(
)となり、世界的叡知に乣明され、世界史的意義が賦与される。ユダヤの宗教体験はヘレニズムの叡知と対峙しつつ固有の意義を深化させ、鮮明な自覚となって再構築される。新約聖書の旧約引用は七十人訳によるが、モーセの神「わたしはある
:
」(出3:14)はイエスである神「
」(ヨハネ8:58等)の福音(
)となる。アラマイ語イエス伝承はギリシャ語化過程で正典化の道を辿る。
『七十人訳ギリシャ語・哀歌の和訳』出版は、小河信一牧師の意義深い試みで挑戦でもある。「哀歌」は歌い始めの間投詞「ああどうして
」に由来し「哀歌
(複数形)」と呼ばれ、アルファベット順に配列された3音律と2音律の詩文学による五歌(章)から成り、捕囚を記念想起して歌われた神殿劇場型挽歌と言える。成立は、バビロニア・タルムードで「エレミヤが哀歌を書いた」(『最後の門』15a)、歴代誌下で「エレミヤはヨシヤを悼んで哀歌を作った」(35:25)とされるが、第二神殿での記念祭儀を背景に捕囚前後かと想定される。七十人訳は「悲嘆
」ウルガタ訳は「悲嘆lamentationes」である。本書の構成は「はじめに、用語解説と表記、七十人訳・哀歌のアルファべートの見出しと順序、第1章七十人訳・哀歌の和訳と比較対照、第2章マソラ本文と七十人訳・哀歌の相違点、七十人訳・哀歌の和訳一括表示、補遺1~4」から成る。七十人訳で訳者も使用本文も不明ゆえ異読意図の解明は困難だが、本書はマソラ本文(Biblia HebraicaQuinta, 2004) と七十人訳(Göttingen Septuagint, 3dEdition, 2006)に基づき、厳密な言語間の比較分析を試みた邦訳哀歌である。圧巻は第二章「マソラ本文と七十人訳・哀歌の相違点」で、R.シェーファーによる相違点(BHQ第18分冊)に加えて、著者独自の8項目が考察され、逆にマソラ本文を鮮明に写し出す。本来ヘブライ語未完了形はギリシャ語未来形に変換されるのが正則だが、マソラの民からすれば、神の神殿破壊と捕囚は過去に忘却すべき歴史でなく「未完了」で、神の出来事として徹底的に主体化され「ああ、主よどうしてですか」と今現在も続く痛みであり、未来に向かう厳粛な嘆きと訴えとなり神の愛と義を根元から乣明する神殿劇場型挽歌となる。ギリシャ語化は捕囚を客体化し歴史化させ、未来に語り継ぐべき今の教訓とする。ヘブライ語未完了形からギリシャ語アオリスト系の変換(「なにゆえ自分の怒りをもって暗くされたのか(
→
)。」2:1a 同書95頁)は異例だが、ヘレニズム的客体化と歴史化の事例ではなかろうか。著者は、七十人訳哀歌の邦訳以上に、用語法比較分析からヘブライ本文とギリシャ訳の双方向に光を当て直し「哀歌」そのものを浮き彫りにした。比較分析で本来の「哀歌」を新鮮に現出させた。













