問いの前に立たせ続ける姿勢
〈評者〉関 智征
イエスはたとえ話の名手である。そして福音書におけるイエスのたとえ話は、古来より解釈の宝庫であり続けてきた。本書の魅力は、その解釈を通して、読者を「答え」に導くのではなく、むしろ問いの前に自分自身を立たせ続ける姿勢を、静かに、しかし確固として促す点にある。
著者である本多峰子氏は、近年の聖書学の成果を踏まえつつ、牧会者らしい落ち着いた筆致で読者に語りかける。
本書では、「第4エズラ記」をはじめとする福音書と同時代の文献も豊富に参照され、たとえ話が語られた歴史的・思想的コンテキストが丁寧に浮かび上がらせられる。イエスの時代の社会状況、宗教的感覚、言い回しを知ることで、福音書のたとえ話は平面的な教訓から解き放たれ、立体的な物語として迫ってくる。
「善いサマリア人」「放蕩息子」「不正な管理人」─ ─いずれも耳慣れた物語でありながら、本書では安易な道徳化が慎重に避けられている。私たちが「わかったつもり」になっていたたとえ話について、原語のニュアンスに立ち返りながら、何が語られているのかをあらためて考え直す機会が与えられる。当時の西アジアの文脈を意識して聖書テキストを読む時に、私たちが意識無意識にもっているフィルターに気がつかされた。
「金持とラザロ」のたとえでは、「富者が神に祝福されており、貧しい者は呪われている」という当時の人々に一般的だった申命記的歴史観による応報思想の中で、いかにイエスのたとえ話がラディカルだったかを思い出す。「宝物」と「真珠」のたとえでは、世の富や世の地位を絶対的なものとして追い求めてしまう私たち自身を鏡でみるような感覚にさせられた。
私たちが前提にしていた解釈を文献学的な裏付けから見直すきかっけが本書にはある。「ぶどう園の労働者」のたとえでは、ユダヤ人にかわってキリスト教徒が神の民となったというスーパーセッショニズムを一部のキリスト教徒が望んだ形にゆがめられた解釈として避け、どの民もすべて神の国に招かれていることを文脈も踏まえて語る。とりわけ印象深いのは、「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえにおけるファリサイ派の位置づけである。キリスト教の伝統の中で、ファリサイ派はしばしば偽善者として描かれてきた。しかし当時の文脈において彼らは、むしろ宗教的な真摯さと敬虔さで知られる存在であった。その前提に立つとき、このたとえが当時の人々にとっていかに意外で、挑発的であったかが鮮明になる。
そこで最終的に読者に突きつけられるのは、「現代をどう生きるのか」という切実な問いである。答えを所有することではなく、問いと共に歩み続けること。その営み自体が信仰であり、思索であり、希望なのだということを、本書は静かに示してくれる。
解釈の多様性を恐れず、むしろそれを楽しむための確かなナビゲーション。たとえ話を読む喜びを、あらためて私たちの手に取り戻させてくれる一冊である。













