生涯と思想を立体的にとらえる
〈評者〉寺園喜基
「ボンヘッファーの生涯と思想は密接に結びついている」。これは著者ティーツの言葉である。彼女はさらに述べる、「ボンヘッファーという人物に取り組む者は彼の神学との対決を避けることはできず、彼の神学を理解しようとする者は彼の伝記を知っておかねばならない」と。このような観点からボンヘッファーの一生が幼年期から教会闘争、投獄、獄死に至るまで的確に立体的に伝えられる。この試みは成功し、橋本祐樹氏の優れた翻訳によって、ボンヘッファーの全体像が読む者に活き活きと伝わってくる。
評伝が立体的であることを示す具体的な例を一点ほど著書に従って挙げよう。『服従』は一面においてはキリスト教の霊性を説いている。しかし著者は、明確な政治的示唆があることを指摘する。すなわち、教会闘争の中で「イエス・キリストに従うことが何を意味するか」をボンヘッファーが示したものだと言う。例えば、イエスの招きに対する「単純な従順」という概念は、当時要求されていたヒトラーに対する「妄信的な従順」に対抗してボンヘッファーが提出したものである。 そして、「高価な恵み」はイエス・キリストに従うことを求めるが故に高価なのである。それは命をかける値打ちがあるほどに高価なのだ。他方、「安価な恵み」は「投げ売りされた赦し」であり、マルティン・ルターの「恵みによってのみ」を誤解して信仰と従順とを切り離すものである。これに対してボンヘッファーは「ただ信じる者だけが従順であり、従順な者だけが信じる」と主張する。そしてボンヘッファー自身は生涯この言葉を生きた。
著者がこの評伝を執筆するに際しての基本的なスタンスは、終章で述べられている(わたしは読者に先ずここから読むことをお勧めしたい)。二つある項目の第一項「一九四五年以降のボンヘッファー受容」においてはボンヘッファー受容の歴史と広がりが簡潔にまとめられている。そして、「荒野で呼ばわる孤独な義人というイメージ」や、またボンヘッファーとその作品に付随する「攻撃不可能な後光」は取り除かれるべきだと著者は述べる。また第二項「今日のディートリッヒ・ボンヘッファー」においては、ボンヘッファーのテキストの多くは七〇年から八〇年前に記されたものだから、今日に直接的に適用したり共有したりすることのできない見解もあると指摘する。しかしそれでもなお「ボンヘッファーの思想の今日性」を三点ほど著者は挙げる。第一は、「そもそも今日の僕たちにとってキリスト教とは何であるか、またキリストとは何者であるか」という問い、すなわち「信仰と神学と生活の関係」を根底から検討する姿勢である。第二は、キリスト者の生活にとって、キリスト者の交わりすなわち教会が不可欠だ、という立場である。「個々のキリスト者は他のキリスト者を必要としている」。第三は、教会は国家に対して法と秩序(と平和)を維持するという課題を想起させねばならない、という主張である。
訳者は従来「抵抗と信従」と訳されてきた「信従」(Ergebung)を「忍従」に替えた。これには賛成だ。信念・信仰に依る信従と異なり、忍従は苦しい状況を耐え忍び従うことだが、これはベートゲがこの語を選んだ理由(一六八~九頁)に対応しているからである。

















