問い続ける恵み
〈評者〉渡邉洋子
本説教集には、二〇二二年一月二日から、二〇二三年九月十日まで、著者が仕える日本基督教団山梨教会の主日礼拝で説教した五十六篇の説教から二十一篇が収められている。また、冒頭に〝「ヨブ記」一章から三一章までの概略〟、途中、三二章からの説教の前には〝「ヨブ記」三二章から三七章までの概略〟がある。
その〝「ヨブ記」一章から三一章までの概略〟で、及川牧師は次のように鋭く語る。「ヨブ記は宗教が陥らせる欺瞞をよく知っています。神とはこういうものだ、人間とはこういうものだ、悪いことをすれば罰を受けるという『公式』を作り出し、その『公式』に神や人間を当てはめてしまう。しかし、人間も、世界も、神も、理解したり、整理したりできないものではないでしょうか。……ヨブ記は、そういう『公式』に否を唱えます」。
この指摘が真実であるからこそ、ヨブ記からの講解説教は困難を極める。及川牧師は、第一回のヨブ記講解説教の冒頭で次のように語る。「私たちは、(中略)毎回、神様の語りかけを聴きたいと願っています。でも、(中略)ヨブ記には、人間が抱え込んでいる問題に関する多くの部分があります。そういう言葉から、『神様の語りかけ』を聴くことができるのか。毎回の礼拝において、説教は説教になるのか。そういう心配もあり、かなり前からヨブ記は読んでいましたけれど、説教する自信が持てませんでした。今も持てないのですが、始めないといつまで経ってもヨブ記の説教はできないので、とにかく始めます」(二六〜二七頁)。これほど説教者が自身の説教の窮状を正直に説教の中で語ったことがあるだろうか。
「正直さ」──これが及川説教の何よりの魅力である。この説教者は偽善的な言葉や気休めを語らない。自身も含めて人間の現実を、本質的な部分で的確な言葉でズバリと描き出すのが、この説教者の真骨頂である。本説教集に収められている各説教でも「人間の現実を語る」筆は冴えわたっている。紙幅の関係上、例を挙げることができないのが残念だ。是非、及川説教の中で語られる人間に出会っていただきたい。
この稀に見る正直な説教者は、連続講解説教、第一回にして「ヨブ記」の結論を、ヨブの在り方から次のように語っている。「神とは何か、人間とは何か。苦難を通して、ヨブは神に問いつつ、そのことを考え続けるのです。わからなくても、神や人間について考え続けること、それが『ヨブ記』の結論のような気がします」。この及川牧師の理解に評者も同意する。ヨブ記は、「神や人間について、神に問い続け求め、答えを求め続けることこそ、信仰だ」と語っているように思う。若き日のカール・バルトが第一講演「教会の宣教の困窮と約束」で語った言葉が思い起こされる。「聖書は、問う人間を求めている」(「説教塾紀要」24号「キリスト教会の宣教の困窮と約束」一七八頁より)。
及川牧師は、このヨブ記から発せられる問いかけを自身の問いかけとし、聖書の本質をもって、説教の中で答えようとしている。ヨブ記の、時に混乱しているように思えるストーリーや難解な表現を、丹念に説得的に説き明かし、そこで問われている「問い」を浮かび上がらせる。そうして、この説教者は、キリスト・イエスを指し示す。目に見える人間のあり方を越えて働き、その人の命を救おうとされる「イエス・キリスト」を「真の神、真の人」として黙想し、キリストから見た人間を本来の人間として示す。キリスト・イエスによって、ヨブ記の問いかけに答えている。及川牧師は、すべてを悟って余裕綽々で説教しているのではない、寧ろ、毎回毎回、ヨブ記が投げかける鋭い問いと真剣に向かいあい、自分たちの問いとしている。そして、答えをキリスト・イエスの福音の出来事に求め、「今、自分たち教会に語りかける主の答え」に耳を澄まし、聞き取った言葉を語る説教だ。
及川信牧師の「人間とは何であるか──ヨブ記講解説教」は、「ヨブ記の問いを自分たちの問いとして、主に問いかけ、今現在の自分と教会に主がどのように答えてくださるのか、聴きとる」という恵みのチャレンジに信仰者を招きいれる。是非、手にとっていただきたい。













