一.映画『教皇選挙』(コンクラーヴェ)
『教皇選挙』という映画がはやりました。2024年に英国と米国で大ヒットし、アカデミー賞脚色部門に輝きました。ロバート・ハリスの小説が原作です(Robert Harris, Conclave, Hutchinson,2016)。ローマを本拠地とするカトリック教会では最高指導者の教皇が亡くなると後継者を決める選挙を行います。システィーナ礼拝堂の扉は外側から鍵をかけられ(cum+clavis 鍵と共に→ conclave →concludo 閉じ込めること)、百名以上の枢機卿が閉じ込められ、三分の二の票を獲得する者が現れるまで投票を繰り返します。枢機卿の通信機器は全部没収され、外部からの情報も遮断され、誰が牧者に適するかの熟考と祈りの日々が続きます。
礼拝堂内部には16世紀にミケランジェロが「最後の審判」の壁画を描きました。それゆえ枢機卿たちは誠実で責任ある選挙を行います。誰を後継者に推すかの判断が最後の審判の際にキリストから裁かれ、それを蔑ろにした投票者は地獄の責め苦を受けることを肝に銘じさせます。
枢機卿は教皇を補佐する顧問です。教皇庁内部に勤務する担当者と世界に散らばって地域ごとの教会活動の監督をする役目を分担して活躍します。教皇はイエス・キリストの一番弟子の聖ペトロの後継者であり、5月に選出された新教皇レオ14世は第267代目です。
しかし映画では架空の登場人物が投票をめぐって話し合いを繰り返し、おたがいに票を奪い合う熾烈な闘いが描かれます(実際の選挙では互いに相手の状況を聴こうとする親身な姿勢での交流が続きました)。あまりにも人間的な権力闘争の駆け引きに陥る枢機卿たちの姿は滑稽で愚かです。枢機卿になったばかりの新入りの登場人物もおおよそ次のように述べました。「選挙のためにここに来たが、これで最後だ。もう二度と来ない」。戦場の悲惨さを熟知した新枢機卿の呼びかけを聞いた枢機卿たちはシュンとして頭を垂れて深く反省する場面には信仰者の誠意が垣間見えたので、安堵させられました。他にも心からおわびする場面が結構盛り込まれ、枢機卿職の尊さが伝わりました。

『バチカン──ミステリアスな「神に仕える国」』
・秦野るり子:著
・中央公論新社
・2009 年
・新書判 224 頁
・836 円
※現在販売しておりません。図書館のご利用をお薦めします。
コンクラーヴェについて学びたい方には以下の文献をお勧めします。①秦野るり子『バチカン──ミステリアスな「神に仕える国」』(中央公論新社、2009年)では「コンクラーベ」(129─137頁)という解説が充実しています。報道の専門家としてのリアルな観察眼による解説は読者の気持ちを駆り立てます。時事報道の動体視力による情報把握の視点をまとめているので、教皇庁の内部事情を理解するための入門書としては適しています。
他に、②松本佐保『バチカン近現代史─ローマ教皇たちの「近代」との格闘』(中央公論新社、2013年)では「コンクラーベ──教皇選出」(26─30頁)というコラムが収載されています。教皇庁が諸外国とどのように交渉して近現代の歴史に影響を及ぼしているのかが正確な資料研究によって過不足なく説明されているので、世界史的な視野で国際情勢をつかめる利点があります。ヨーロッパの外交史における教皇庁の役割を明確に描いた研究書としては日本初の快挙であり高く評価できます。そして③松本佐保監修『ローマ教皇とバチカン2000年の謎』(宝島社、2025年)も役立ちます。ちょうど②の内容に則り、さらにわかりやすい図版を多用することで視覚的に教皇庁の外交史を瞬時に理解できるように工夫されているので読者にとって親切な本です。協力した編集者たちの手腕も冴えています。
二 .ローマ司教の伝統を継ぐ「信頼できる親」(パーパ)としての教皇
ローマ司教は、イエスの直弟子のペトロの後継者とされ、きわだった愛と奉仕の実践において、ローマ帝国占領下の初代教会以来あらゆる人々からの尊敬を受け、それゆえに信仰上の父親としての親しみのある愛称でPapa(ラテン語)と呼ばれます。邦訳では「教皇」ですが、実は「信頼できる親」を意味します。教皇は普遍教会における最高の統治権と教導職を有し、あらゆる司教たちを束ねて一致をもたらす「しもべらのしもべ」であり、「神と人間とのあいだを橋渡しするキリストの代理者」としての責任を備えます。教皇職が意味する内実は「信仰上の父」、「ローマ司教」、「キリストの代理者」、「使徒のかしらであるペトロの後継者」、「全カトリック教会の最高司祭」、「ラテン教会総大司教」、「イタリア首座大司教」、「ローマ管区首座大司教」、「バチカン市国元首」です。
教皇(Papa)という称号の一番古い使用例は第36代ローマ司教聖リベリウス(在位352─66年)の墓碑です。そして東方教会から第45代教皇大聖レオ1世(在位440─61年)に対して宛てた書簡でも使用されました。西方教会では5世紀半頃からローマ司教だけが「教皇」と呼ばれました。第157代教皇グレゴリウス7世(在位1073─85年)から公文書でも正式に使用され、当時の世界全体だった地中海周辺で了解されました。第64代教皇大聖グレゴリウス1世(在位590─604年)は「神のしもべらのしもべ」(Servus servorum Dei) と自任しました。ローマ司教は中世ヨーロッパ期に「大司祭」(Pontificus Maximus)、「キリストの代理者」(Vicarius Christi)、「ローマ教会の最高司祭」(SummusPontifex Romanus)と呼ばれました。
三.初代ローマ司教のペトロについて
使徒ペトロの存在感は新約聖書の記述において特別な位置を占めます。特にローマ・カトリック教会の神学において教会設立の根拠およびペトロの首位権の端緒として解釈されるマタイ16・16─19の箇所で、ペトロはイエス・キリストから特別な認定を受けました。以下の四点を鑑みれば明らかです。①ペトロは他の弟子たちに先んじてキリストの意義を明確に告白することで祝福を得ました。②キリストはペトロによる信仰告白を神の啓示によるものとして認めました。③キリストはペトロを教会の土台として「岩」と呼びました。④キリストはペトロに対して罪のゆるしのための権能である鍵を与えました。しかも使徒言行録の記述によれば、ペトロはエルサレム教会で頻繁に説教することで使徒としての責任を果たしつつ、異邦人の回心を支えて世界宣教への先鞭をつけた指導者でした。
四 .近代の教会が現代の教会に影響を及ぼした教皇についての教え
第二バチカン公会議(1962─65年)が現代の教会共同体の方針を示します。『教会憲章』では教皇の呼称として「ペトロの後継者」が特に重視されます(同8項、15項、22─25項)。そして『エキュメニズム教令』2項、『司教司牧教令』2項、『宣教活動教令』5─6項でも「継承」が強調されます。教会共同体はイエス・キリストを直に目撃して共同生活によって志を全面的に受け継ぐ使徒としての継承の迫力を重視します。
「教皇」の重要性が明確な教えとして確立されたのが近代の第一バチカン公会議(1869─70年)でした。そして第二バチカン公会議は第一バチカン公会議の決定事項に沿って教皇職が教会内部で示す権威を再確認しました。『教会憲章』18項を見れば明らかです。こうして、すでに第一バチカン公会議の際に主題となったローマ教皇が保持している「首位権」を制定し、その権威が永続する性質を備えており、その権能を根拠づける教えが第二バチカン公会議においても確認されるとともに「教皇の不可謬の教導職」もまた重視すべきことがローマ・カトリック教会では明らかにされました。
第一バチカン公会議は教義憲章『パストール・エテルヌス』(「永遠の牧者」という意味)で「教皇の首位権」を明確に認定し(1─3章)、次に「教皇の不可謬性」(4章)を確認しました。しかし教皇の「首位権」も「不可謬性」も、ともに地上の政治権力とは異なります。むしろ二つの教えは、第一バチカン公会議および第二バチカン公会議の討議を経て、信仰と交わりによる使徒団全体の一致を保つ信頼性を基礎とします。つまり教皇は単独で政治的支配を行う独裁権力者ではありません。むしろ教皇はキリスト者全体の信仰と倫理道徳的な立場を適切な仕方で護り支えるために、牧者としての司教団と一致協力して使徒的な交わりによって奉仕します。その状況はイエス・キリストの意向を実現すべく努めた筆頭使徒ペトロと他の使徒たちとの一致団結の姿にもとづきます。
五 .結語──キリストによるいのちがけの愛の姿を受け継ぐために
コンクラーヴェ(教皇選挙)は、キリスト者による愛の実践を具体的にあかしするローマの牧者たちの連携を歴史的に絶やさないための教会組織上の工夫として中世期に制度化されました。相手を支えて自分のいのちを捧げるキリストの十字架上の姿こそが、キリスト者にとっての愛の極致なのですが、その姿に見習って聖ペトロも十字架にはりつけにされて殉教しました。しかも頭が下にくるようにして足を天に向ける「逆さはりつけ」という、一層苦しみの増す仕方で。枢機卿たちは赤い色の服を着て殉教する覚悟で信仰を深めて信徒たちを護りますが、教皇に選出されることで「小羊の血で洗い清めて白くなる」(黙示録7・14)という聖なる歩みを実感するべく一層成熟します。いのちがけでキリストの愛の姿を世界に向けて示しつづける責任者を真剣に選ぶしきたりの真意が大切に理解されるように願ってやみません。