統一教会(現・世界平和統一家庭連合)は「未証し勧誘」といって、正体を隠したまま勧誘する手口を使います。じつは私も二十代のときに久しぶりに再会した同級生に、勉強会という名目で教団の施設に連れて行かれたことがありました。週刊誌で霊感商法の問題が盛んに報じられていたためすぐに気づいて立ち去りましたが、なぜ自分がいとも簡単について行ったかといえば、路上で熱心にチラシを配る彼女を見て、少しでも力になれればという気持ちからだったと思います。
でもその後、脱会のために動いたわけではありません。彼女のためという、今考えれば傲慢な自分自身に気づき、内心忸怩たる想いで昨今の教団に関する報道を見守っています。
るなしい
意志強ナツ子の漫画『るなしい』(講談社「小説現代」二〇二一年三月号~連載中)を読み始めたのは、ちょうど東京地裁が統一教会の解散命令を決定した日でした。すでに話題作なのでご存知の方も多いでしょう。誤解を恐れず要約すると、「火神の子」として育てられ、宗教的掟に縛られて生きる女子高生、郷田るなとその同級生たちを中心に展開する宗教サスペンスです。
祖母が営む鍼灸院で鍼灸師として働くるなは、自分の経血を用いた「処女のモグサ」を学校に持ち込み、同級生を施術してお金を稼いでいます。「宗教の人」といじめられているところをケンショーに助けられ、るなは彼に恋をしてしまいます。
るなが信仰する火神教は恋愛禁止で、閉経まで処女でいなくてはならないという掟があります。にもかかわらず彼に告白してあっさりふられてしまったるなは、その怨みから復讐を決意、ケンショーを信者ビジネスに取り込もうとします。ケンショーもケンショーで、るなの商才に惚れ込み一緒にビジネスをやりたいと望むように。るなは了解しますが、その代わり、家族との縁を手放すよう祈れと条件をつけます。
著者はこの作品を描くにあたり、ホストに大金を貢ぐ女性や新興宗教の話を参考にしたそうです。自己実現の夢に期待して大金を捧げる女性の姿や、ケンショーの口車に乗せられて高齢者が多額の投資をしてしまう様子は、まさに違法ホストクラブやカルトの手口そのものです。
るなは幼い頃から家族と離れて祖母と暮らしています。なぜそんな運命を生きているのか。るなの兄はケンショーに語ります。
「るなは火神の医学の避雷針で人柱で生贄で、そのおかげで僕たち家族は食べていけるんだから、今はもう感謝しかない」
どういうことでしょうか。信者を手玉にとっているように見えて、るなは犠牲者なのでしょうか。
本稿執筆時点で物語は完結していません。ただ歪んだ信仰心と人間の欲望によって破滅が近づいていることは想像がつきます。第1巻冒頭でるなが収監されている場面が描かれていたため、この先は事件化するのでしょう。獄中のるなの顏に差す薄い光に希望を感じたのですが、さて……。
『神とパンデミック─コロナウイルスとその影響についての考察』

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『神とパンデミック─コロナウイルスとその影響についての考察』
・N・T・ライト:著
・鎌野直人:訳
・あめんどう
・2020 年
・四六判 108 頁
・1,100 円
○○が犠牲になってくれたおかげで、自分は生きている──。信仰をもたない者でも使う表現ですが、拙著『証し日本のキリスト者』の取材で全国のキリスト者にインタビューしたときはさすがに何度も耳にしました。こちらは一般用語の「贖罪」ではなく、イエスは私たちの罪を背負って死んだという、キリスト教の「贖罪信仰」です。その起源や広がり、とくに西方教会の影響が強い日本の教会の特性についてはすでに専門家が検証しているためここでは深入りしませんが、教会を歩く中で、これが災禍の犠牲者に置き換えて語られるのを知って驚きました。
ある人は言いました。災害や事故、戦争、ホロコーストまで、なぜ何の罪もない人が犠牲になるのか。彼らはイエスのように、人間の罪深さに気づかせるため自ら名乗り出た天使たちではないか。
新型コロナウイルスで多くの犠牲者が出ていた頃も、自称預言者が現れ、悔い改めよ、これは終末のしるしだ、神のメッセージだと言いました。多くの教会が混乱する中、取材に応じてくださった日本聖公会北海道教区の笹森田鶴主教の言葉が印象に残っています。
曰く、そのような問いはキリスト教に根強くあるが、自分はそこに立たないことがとても大事だと思う。なぜならそれは神に答えを出せといっていることだから。神のメッセージを探すのではなく、神はこの世界でどのように働こうとされているのかを見ていく、と。
はっとしました。なぜ神はと問うのではなく、神ならどう働くのかを問うことの大切さ。笹森主教がそのとき紹介してくださったのが、イギリスの聖書学者N・T・ライトの『神とパンデミック コロナウイルスとその影響についての考察』(鎌野直人訳・2020/あめんどう)でした。コロナ下で「タイム」紙の求めに応じて書かれた文章を中心に、先述したような「すぐ人の心に浮かんでくるその場しのぎの反応に抵抗する必要」から書かれたものです。
なぜ神は走り寄って解決してくれないかと問われたとき、聖書に沿って何を語るべきか。ライトは、イエスの十字架を語るなら、山上の説教で示された「神の王国」も語らねばならないと言います。神の王国はすでに始まっており、神は人とともにすでに働かれている。私たちの使命とは、「世界が痛んでいるその現場で祈る、それもことばにならない祈りを祈ることです」(傍点ママ)と。
本書は一般紙に寄稿された文章をまとめたもので、神の王国の到来を十字架と結びつけて理解することの重要性や、人と共に働く神の話などは、ライトの著作に詳しい読者にとって目新しいものではないかもしれません。でもこの先何度も、容易には答えの出ない事態に直面するはずです。手元に置き、繰り返し読み返したい一冊です。
政治と宗教─統一教会問題と危機に直面する公共空間
話は冒頭のエピソードに戻ります。文化庁の『宗教年鑑』を見ると、統一教会はキリスト教系の新宗教に分類されています(キリスト教界では異端とされますが)。経典『原理講論』は旧約聖書のアダムとエバの物語を独自に解釈し、日本を「エバ」国家と位置づけ、「アダム」国家である韓国に従属すべき存在だと定めています。
背景にあるのは、植民地支配と当時行われたキリスト教徒への激しい弾圧です。日本人の献金はその贖いであり、人類を堕落させたエバと同じエバ国の女性はアダム国の男性に尽くし、家族に尽くして贖罪すべきと教えます。キリスト教らしき言葉を巧妙に取り入れ、信者の罪悪感を揺さぶります。私の同級生もその一人だったのでしょう。
元首相銃殺事件を受けて緊急出版された、島薗進編『政治と宗教 統一教会問題と危機に直面する公共空間』(岩波新書・2023)は、このように日本人の贖罪意識につけこんで財をなした教団を理解する一助となります。
本書によると、統一教会と政治の関係には三つの段階があるそうです。
「反共」で日本の右派政治家と結びついた一九六〇~八〇年代、合同結婚式や霊感商法、多額の献金が問題視される一方、政治家への秘書派遣などが始まった一九九〇~二〇〇〇年代、政治家との癒着が濃厚となった二〇〇〇~二〇一〇年代です。本来、一人ひとりの生き方や倫理観を支えるはずの宗教が勢力の拡大を企み、政治的関与を深めていく過程がわかります。
このほか、創価学会の変遷と自公連立政権の誕生、フランスのライシテと呼ばれる政教体制とセクト規制、米国の政教分離と宗教右派の影響など、公共空間が直面する政治と宗教の関係を各分野の専門家が読み解きます。「カルト」の話は関係ないといって思考停止するのではなく、境界は紙一重であること、にもかかわらず、なぜ自分は踏み止まることができたかを考える手がかりにもなるでしょう。