カール・バルトが『教会教義学』の 第一巻でこのようなことを言っている。
「召命された者は、その時、教会に与えられた約束を、自分自身の言葉で、彼の時代の人間に対して、分かるものとしてゆこうとしなければならない。召命、約束、聖書説明、現実性 ─ 、それらは、説教という概念の決定的な規定である」。この書物の出版は一九三二年。社会的な状況としては、この年の総選挙でナチが初めてドイツ議会の第一党になっている。これから戦争に突入し、戦争が終わった後も、あの大著の執筆は続いた。そのような時代と彼の言葉とは無関係ではない。バルトの言葉は神の召命に従って、教会に与えられた約束を、その時代に向けて語り続けるものであった。私たちの時代の説教者たちも、今この時代の中で宣教の言葉を獲得するべく戦っている。事柄にふさわしく礼拝 を続けること、説教を語り続けること、それ自体がすでに戦いなのだ。
説教者はしばしばこの戦いを孤軍奮闘していると勘違いする。確かに説教者の土曜日の書斎は孤独だ。本当のところ、神の前に独り立つことなく説教はできない。孤独は説教の本質の一つであろう。しかし同時に説教は礼拝というパブリックな場で語られる言葉であり、教会の言葉だ。説教者は教会に立てられている。そして二〇〇〇年間神の言葉を託されてきた無数の説教者の仲間たちが、現代の説教者の周りを証人の群れとして取り囲んでいる。説教を学ぶとは、その証人の言葉に耳を傾けることに他ならないと私は信じている。
加藤常昭『説教への道 牧師と信徒のための説教学』
加藤常昭先生の説教学書の一つの集 大成である本書には明確な目標がある。「この本を読み終えたとき、読者が確信をもって説教をすることができるようになることを願って、その手引きを」することである。説教学において多くの書物や論文があり、その成果を一冊にまとめればかなりの大著となろう。しかしそれよりも実際に説教する者の助け、同伴者となるあり方を選んだということはとても印象深い。
更に加藤先生は説教塾を通じて後進の説教者の育成に尽力してきた。私もそこで学ぶ者の一人だ。私が加藤神学に触れて印象深く感じたことは、他の何よりも神の御前にあるものとしての敬虔さだ。そしてその神学が極めて実際的であることだ。
敬虔さについては、例えば本書で言及されている説教作成の過程が、黙想に特徴付けられているところにも端的に表れている。ルターの言葉を紹介しながら、神学すること(ここでは「説教すること」と言い換えて差し支えない)は祈り、黙想、試練だと言う。特にこの「試練」は攻撃、しかも神からの攻撃を意味する。それは「いつも神の言葉を聞き続け、それによってひたすら生きぬくことに伴う試練」なのである。
本書は極めて実際的だ。説教の準備の過程、聖書との出会いから説教するまで、そして聞き手に聞かれるまでを七つの過程に整理している。加藤先生の言葉で言えば聖書の言葉の立体化、御言葉が立ち上がる道だ。ただ、それは一定のアルゴリズムに当てはめれば自動的に説教ができあがるというような物ではない。神からの試練に身をさらす、神との祈りにおける戦いの過程である。本書は祈る説教者の同伴者となる。加藤先生の他の著書と共にぜひお勧めしたい。
H・J・イーヴァント『説教学講義』
あくまでも私の狭い見識であるが、こんなに胸が熱くなる本を私は他には 知らない。本書の経緯は訳者あとがき に詳しいが、一九三七年、イーヴァン トがブレスタウにあるtiイツ告白教会 の牧師補研修所でした講義録だ。三六 年に開設されたこの研修所は翌年には 東プロイセンから追われ、イーヴァント自身もナチの手で逮捕されている。まさに戦いの中にいた教会への、そし て説教者なっていく者への言葉である。
イーヴァントは、神の言葉はこの世界に属する言葉ではないのだから、世界は神の言葉を根絶することができると言う。「だからこそ教会が没落する こともあり得る。教会が没落すること などないと言い張ることは、褒められ た話ではない」と指摘する。厳しい言 葉だ。もしかしたら現代の教会も陥っ ているのかもしれない楽観論を戒める。単に社会情勢を見て悲観的に振る舞う のではなく、神の言葉に仕えるという事実に即すところから生まれる厳しさだ。
イーヴァントの時代も、現代も、基本的な問いは変わらない。説教すること、礼拝すること、祈ること、それら はすべて戦いだ。私たちはこの一年の 間、礼拝を献げられる自由が当たり前 でないことを知った。疫病の蔓延は容 赦ない。礼拝堂における公開での礼拝 を休止せざるを得ないこともありうる。しかし、安易にその道に逃げないよう にもしたい。私たちは今誰の目を気に し、誰に気を遣っていのるのか、もう 一度考えたい。ここにも戦いがある。
イーヴァントは、悔い改めは決して自分自身との関係の問題ではないと訴える。悔い改めは神と世界との対立における、神の世界への侵入箇所だ。「悔い改めたひとりのキリスト者が神を信じない人々の中にいるということは、その神を信じない人びとの住む領域に傷口が開いたということである」。教会は神とこの世界との戦いの現場だ。説教すること、祈ること、礼拝すること、それらはすべて戦いの業である。神の業が今ここでなされていることを確信したい。
教皇フランシスコ『使徒的勧告 福音の喜び』
三冊目にお勧めするのは少し色合いの違う本、しかしすばらしい一冊だと思っている。現在のローマ・カトリック教会の教皇フランシスコによる使徒的勧告であるが、現代カトリック教会の説教論と言って差し支えないのではないかと思う。
本書は福音の喜びを宣教しようと力強く訴えかけている。福音の喜び、それは「イエスに出会う人びとの心と生活全体を満たす」ものであり、イエスの差し出す救いを受け入れる者は「罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放される」。プロテスタント教会もローマ・カトリック教会も同じ信仰に生きている、同じ福音に生かされていると再確認させられる言葉だ。
特に私がフランシスコらしいと感じるのは、「出向いていく」ということについて言及しているくだりである。教会が宣教をするのであれば、例外な くすべての人のところへ出て行かなく てはならない。中でも優先すべきは「友 達や近隣の富裕者ではなく、むしろ貧 しい人や病人です。彼らは大抵見下さ れ、忘れられていて、『お返しができ ない』人びとです」と訴える。そして、すべての教会に呼びかける。「出向い ていきましょう。すべての人にイエス のいのちを差し出すために出向いてい きましょう(。中略)わたしは、出て行っ たことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえにやんだ教会よりも好きです」。大いなる励ましの言葉だ。
フランシスコは現代社会の危機にいても冷静に分析する。排他的な経済や貨幣という偶像崇拝、格差、都市化などに関する神学的な考察は大変参考になる。現代社会はむなしさの虜に なっている。福音の喜びが必要なのだ。
私はこの書物からとても励まされ、また知恵を頂いた。思えば教皇フランシスコが長崎や広島を訪れたときの説教も忘れがたいものであった。福音の喜びを説教する私たちの戦い、祈りにおける戦いは、今まさにそのまっただ中なのだ。
宮井岳彦
みやい・たけひこ:カンバーランド長老教会さがみ野教会牧師