手遅れにならないうちに
〈評者〉澤 正幸
本書が、今、この国で出版されることは時宜にかなったことだと言わねばなりません。
とりわけ「ウェストミンスター信仰告白における合法的戦争」の論文で取り上げられている戦争の問題は、今の日本のキリスト教会にとって喫緊の課題だからです。
「実際に戦争が起こると、歴史上の教会が、聖書から学び続けてきた『個人の尊厳と何か』『国家とは何か』『国家の権能とは何か』『国家による人間支配の限界とは何か』といった神学的テーマに関する議論が難しくなるのです。国家が圧倒的な力で、個人も教会も巻き込んでいくからです。
それゆえ、戦争が起こってから議論しているのでは間に合いません。平時に議論し、自分たちの立ち位置を確認しておく必要があります。『国家とは何か』『国家と教会との関係は何か』『戦争とは何か』です。それを教会のコンセンサスとして言葉化しておく。それが、今、求められていることなのだと思います」(一五七ページ)。
ウクライナ・ガザでの戦争が「台湾有事」などのプロパガンダに乗って、日本に波及することを深刻に憂慮している今こそ、教会は「手遅れにならないうちに」戦争について神学的に考え抜く必要に迫られています。
著者は、自らの所属する日本キリスト改革派教会の信仰基準、ウェストミンスター信仰告白第23章第2節が認めている「合法的戦争」について、「複雑なことを単純化せずに、その複雑さをしっかり見つめて、それを聖書の光によって、神学の伝統の助けを得ながら考え抜」こうとします。
第23章「国家的為政者」全体のコンテキスト、宗教改革期の他の信条との比較、再洗礼派への批判にも言及した後、アウグスティヌス以来の「正義の戦争」の神学的系譜を明らかにした上で、一七世紀の戦争と核兵器の脅威にさらされている現代の戦争の違いを踏まえつつ、次のような結論を導き出します。
「以上のことを考慮するなら『合法的な戦争が許される』と記されていても、それは決して安易な戦争肯定には結びつかないことは明らかである。私はむしろ、この規定はリアリズムに基づく力強い平和主義の規定ととることができると思う」。
「原理主義的な絶対平和主義では対処できない罪深い人間の現実に直面する」リアリズムに立ちながら、戦争の時代にも、ウェストミンスター信仰告白が極めて抑制の効いた形でしか「合法的戦争」を認めなかったところに、今日の私たちが学ぶべき平和のために努力する精神を見出すことができる。「戦争の性質が大きく変わった今日、教会が戦争を避けるために努力するのは当然といわなければならない」。「原理主義的絶対平和主義は取らないが、現実には絶対的な平和を追求するしかない地点に立たされていると言える」。
日本キリスト改革派教会が上記の線に立って採択した「平和の宣言」は改革派神学の伝統に立つ諸教会、さらに公同の教会に向けて開かれた宣言だと言うべきでしょう。
著者の「改革派長老派伝統に堅く立つ教会を建てることが、日本宣教全体への貢献につながる」との願いが本書によって実現することを心から願います。