毎日、神の言葉に出会い、導かれる
〈評者〉永井信義
日本人牧師や本書のような海外の著者も含め、毎年のように新しい黙想書が出版される中、今回、聖書そのものに多くふれる機会を提供する、『日々の黙想 366日で読む聖書』が発売されることとなりました。キリスト教用語の使用に配慮の行き届いた、特にまだ読んだことのない人にもやさしく、レビ記、エズラ記、オバデヤ書、フィレモンへの手紙は除きますが、聖書全体をナビゲートする内容となっています。
これまでの黙想書の多くは、著者が記した部分がその多くを占めている場合が一般的ですが、本書はそのほとんどが聖書からの引用で、聖書を大きな神の物語として読みたい人にとっては、毎日読み進めていく中で、その全容を理解するのに大いに役立つ構成となっています。
また聖書の言葉に直に接することで、テモテへの手紙二3章にあるように「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益」であることを、読者は毎日の生活の中で体験することができます。著者は「何が真実であり、何が間違いであるかを、私たちは聖書から学ぶことができます」と語っていますが、フェイク、つまり、嘘や偽物が氾濫するこの世界で、聖書と出会うことが私たちには不可欠ではないかと思うのです。
本書のもう一つの特徴は、各ぺージの一番下の部分に、この作品が初邦訳となる著者ニーナ・スミットの「短くシンプルなメッセージ」が記されていることです。それも三、四行ほどの、その引用箇所に書かれていることをまとめ、さらに思いめぐらすために役立つ問いが載せられています。
たとえば、新約聖書のヘブライ人への手紙3章と4章が引用されているページでは、次のようなメッセージを記すことでよりわかりやすく、また、読者に神の言葉に真摯に向き合うことの大切さを伝えています。
「神の言葉は生きていて、力があります。どんな剣よりも鋭く刺し貫き、私たちの心の奥底にある思いや願いをあらわにします。神の前にあらわでない被造物はありません。私たちは神に対して、説明責任があるのです。」
旧約聖書のヨシュア記24章で、ヨシュアがイスラエルの人々に「あなたがたが仕えようと思うものを今日、選ぶがよい。しかし、私と私の家は主に仕える」と選択を迫った場面では次のように問いかけ、チャレンジしています。
「ヨシュアは、仕える相手を選ぶようにと、民に選択を迫りました。民は神を選びましたが、すぐにそのことを忘れてしまいました。あなたは誰を選びますか。また、その決断に忠実ですか。」
最後に、本書の装丁は日々の利用にも飽きさせないもので、しっくりと手に収まるサイズ、しかも、これまでのシリーズよりは年齢を重ねた者の目にもやさしい文字の大きさで、毎日読むことへと誘いざないます。プレゼントにも最適ですが、やはりまずはご自分で使っていただきたい一冊です。
聖書の本文を中心にデザインされている本書に助けられながら、「私の足の灯 私の道の光」(詩編119編)である「神の言葉」と出会い、導かれる旅を続けていきたいと心から願います。