建設的な聖書釈義に基づくテキストの深みへの切込み
〈評者〉河野克也
松木充先生の説教集『聖霊による福音宣教』の出版を心から喜びたい。書評ではあるが、個人的な思い出から始めたい。先生との最初の出会いは、私が愛媛県で子ども時代を過ごしていた頃で、当時おそらく17、18歳? だった松木青年は、夏の小学生キャンプにギターを抱えて颯爽と登場し、当時全盛期? のゴスペルフォークを紹介してくれた「憧れのギターのお兄さん」だった。その後、私の父が東京聖書学院の男子寮舎監となってキャンパスで生活するようになり、松木青年が聖書学院で学ぶようになると、私は夜の自習時間に部屋を訪ねてはギターの話で盛り上がって喜んでいた(勉強の邪魔でした)。私はその後アメリカに留学し、ダラスの大学院に進学した際には、一足先に留学してアメリカで牧師をしていた松木先生を慕って、ダラスのジャパニーズチャペルに通うことにした。それまで注解書や論文などの二次文献を読むことに注力していた私は、ギリシア語テクストを丁寧に釈義し、的確に時代背景に照らして説教を語る先生の姿勢を通して、釈義の重要さを教えられた。それ以来、先生は私にとって憧れの釈義家・説教者となった。
本書は松木師がKFG志木キリスト教会で語った使徒の働き(使徒言行録)連続説教の「要約」である。「まえがき」では「週報掲載のために削りに削った文章」と説明されているが、ダラスで毎週一言も聞き漏らすまいと身を乗り出して先生の説教を聞いていた者としては、その「削りに削った」部分も非常に気になる。それでもこの説教集が「要約」の形で出版される意義は大きい。それは、松木先生が使徒の働きの中心的メッセージと考える「聖霊による福音宣教」が、研ぎ澄まされた形で明確に提示されているからである。本説教集では、釈義家としての松木師の賜物が隅々に発揮されている。例を挙げたらきりがないが、特に教えられた点をいくつか紹介したい。私は新約学の二次文献を読む中で、パウロとエルサレム教会、特に主の兄弟ヤコブとの関係について、テクスト自体が描くよりも対立的に読んできたのだが、先生は両者の関係をより和解的に読み、両者が互いに「命がけの配慮・決断」によって教会の一致を守ったことを強調する(「お互いのための配慮」306-310 頁)。正確なテクスト釈義は、釈義家の信仰者としての人格を形成する。また時代背景の点では、ピリピでの占いの霊に憑かれていた「若い女奴隷」の癒しについて、当時の奴隷が置かれていた状況から、この霊の追放が彼女自身の解放であったことを説明し、さらに現代の経済的搾取の状況についても警鐘を鳴らす(「イエスの御名による解放」246-250 頁)。このピリピが「ローマの植民都市、皇帝直轄地」だったことから、「パウロのローマ行きのヴィジョンは、ピリピで抱いたものだった」と推測するが(240, 242 頁)、その推測には説得力がある。他にも随所で、ローマ帝国の支配下での民族主義の高まりなどを背景に説得的な釈義を展開する。
本書は福音宣教が聖霊の働きによることを力強く証しし、現代の私たちもまた、聖霊に押し出されて宣教の働きを担うようにと招く。ぜひこの説教集に導かれて使徒の働きを読み進め、その招きに応えていただきたい。
河野克也
かわの・かつや=東京神学大学特任准教授