「会社には、伝道のため行くのだ」。大学卒業後そのまま神学校へ行くとの道が閉ざされ、五年の約束で就職した身には、在学中繰り返し聞かされたことばが呪縛となった。伝道のたいせつさは分かるが、競争の激しい半導体産業に遣わされ、結果を出さねばならぬ環境で、仕事に積極的意義を見出せないのは辛い。キリスト者の仕事観とはこんなものなのか、答えが出ないままともかくも開発製品を世に送り出して退職、神学校へ入学した。水を得た魚だったが、件の認知的不協和は未解決のまま卒業し牧師職に。ほどなくして出会ったのが、後藤敏夫『終末を生きる神の民──聖書の歴史観とキリスト者の社会的行動』(いのちのことば社、一九九〇年。改訂新版二〇〇七年)であった。百ページにも満たぬブックレットだが、大衆伝道で強調される「天国行きの福音」がこの世での営みに価値を置かない悲観的終末論に基づいており、むしろ今ここに神の国を先取りして地に足のついた活動をし、その結果を終わりの日に完成する神の国へと持ち込む積極的終末観こそ、聖書全巻が求める生き方であることを明確に教えてくれ、心が震えた。そこには、仕事はもちろん芸術や趣味、福音派が重んじて来なかった社会的行動に至るまで、聖書のグランドナラティヴに定位させるパースペクティヴと世界観があった。
さらなる確信の深まりは、ポール・マーシャル『わが故郷、天にあらず──この世で創造的に生きる』(いのちのことば社、二〇〇四年)との出会いによる。タイトルと副題が内容を言い当てているが、世への恐れ、世にある立場、世への応答、世にある務め、世への希望という五部構成で、帯には「仕事、アート、遊びすべてが創造的!」とのことばが躍る。ライフワークの天文学は、主の創造のみわざを讃える手段というよりそれ自体に価値があり、喜び楽しむ自分を主は喜んでくださるのだ。日々の営みすべてに意義と輝きを与える本。得難い宝である。
(せきの・ゆうじ=聖契神学校校長)
関野祐二
せきの・ゆうじ=聖契神学校校長