病・苦難や差別との向き合い方を問う
〈評者〉山吉智久
本書は、二〇二二年一一月に上智大学キリスト教文化研究所主催の聖書講座「宗教と病─聖書的信仰の観点から」をもとに、三人の講師による講演がまとめられたものである。当研究所は、キリスト教を幅広い視野から考察することを旨とし、特定の主題を設けて超党派で講師を招く聖書講座を開催して、翌年にその内容を出版する活動を毎年続けており、本書もこの営みによる成果の一つである。
二〇二二年度の聖書講座の主題「宗教と病」は、二〇二〇年春に始まり、世界中を混乱に巻き込んだ新型コロナウィルスのパンデミックを受けたものである。このコロナ禍によって、人類は医学をどれだけ発展させようとも、未知の病に対していかに無力であるかを思い知らされた。この危機を前にして、世俗化が進む現代において、宗教がなお果たし得る役割について、改めて問われることにもなった。本書に収められている三つの論考はいずれも、本書の副題が示すように、人類と病との向き合い方について、「聖書的信仰の観点から」何が語れるのかという問いに答えようとしたものである。
並木浩一氏による「旧約聖書の人々は病とどう差し向かったか」から学ぶのは、病からの解放を目指す人間による医療行為が、神による創造の業の継続と見なされることで、信仰との調和がはかられるようになったということであり、両者が本質的に対立関係にはないということである。
本多峰子氏による「イエスの癒し─病、穢れ、悪霊憑きについての新約時代の見方とイエスによる癒しの救済的意味」から学ぶのは、イエスによる病からの癒しが、癒される者の信頼に対する神の憐れみと恵みの業であり、それは癒された者にとって病からだけでなく、「罪人」や「穢17れ」と見られていた偏見からの解放でもあり、そこにイエスの逆説的な使信が見出されるということである。
角田佑一氏による「マタイ福音書における二人の盲人の治癒」から学ぶのは、マルコ福音書における一人の盲人の治癒物語が、マタイ福音書では「二人」とされたことで共同体性が獲得され、この治癒が目を「開く」という言葉で言い表されたことで「ダビデの子」たるイエスによる終末論的な救済の意味合いが込められたということである。
病になると、それまで何の苦もなくできていた日々の単純な動きやリズムも、実は決して当たり前のものではなかったということを思い知る。病は、身体的な苦痛だけでなく、社会から切り離されることの無念さや孤独、予後や将来への不安をもたらし、それが差別となって当事者を苦しめることにもなる。殊更そのような問題を扱う内容であるがゆえに、差別語とされる語句についてはできるだけ避ける、あるいは説明を付けるなどの細心の注意を求めたかったところではある。
本書の各論考は、聖書正典のみならず、偽典・外典や死海文書にも及んでおり、それらとの関連の中から「聖書的信仰」を浮き彫りにしようとする視野の広いものとなっている点が特徴的である。このようなエキュメニカルな活動を目に見える形で示すべく、講演・論考を担われた各講師のみならず、論考を一書にまとめ上げられた編者ならびに出版社の労に敬意を表する。
山吉智久
やまよし・ともひさ=北星学園大学教授