友会徒が創業した企業の100年超の興亡史に学ぶ
〈評者〉金澤周作
ラウントリー社、キャドバリー社、友会徒(クエイカー)、フィランソロピー(博愛活動)─。本書を貫く四つのキーワードである。ふつうの日本人でこのどれか一つにでも知識か関心のある人はほとんどいないのではないか(本誌読者なら後二者には見覚えがあるかもしれないが)。いかにも手に取りにくい、あるいは飲み込みにくいテーマだ。しかし、そこで本書のタイトルである。『チョコレートのイギリス史』。なんと魅力的なことか。人の食指を動かす美しい糖衣だ。食べてみよう。嚙み砕くと広がるのは、ただの文化史的な甘い風味ではない。タイトルから想像されるような大英帝国を彩る紳士淑女たちの華やかな暮らしぶり、多種多様な菓子商品のイラスト、チョコレートを用いた飲料や菓子のレシピ、といった類の情報は一切出てこない(よく知る意外な商品名は頻出するが)。むしろ、はるかに複雑精妙な味わいが楽しめる。
本書の扱う空間はイギリス、主たる時間枠はその最盛期である一九世紀後半から、二度の世界大戦を経て福祉国家となり、やがてその機能不全で苦しみ、再生を図る二一世紀初めまで。この時空間を、著者は政治、経済、社会の主要な展開過程によって区切り、近現代イギリス史のそのつどの特色を描き出すことで、冒頭の四つのキーワードが息づく歴史的背景を正確に設定する。過去の何かや誰かを理解するためには、それらが存在した時空間の、他とは異なる独特な歴史的背景の知識が不可欠である。ここが曖昧だと理解はおぼつかなくなる。その点、著者はその道の碩学であるから、読者は安心して身をゆだねることができる。
著者はイギリス経済史の中でもとりわけ経営史に造詣が深い。主著のひとつ『禁欲と改善』(晃洋書房)で詳述されるが、著者の根本的な関心は近代資本主義とそれを体現したイギリスの企業家たちの「職業倫理」との関係、すなわちマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に直結する、宗教と倫理と営利活動の問題系にある。そして、もうひとつの主著『近代英国実業家たちの世界』(同文舘出版)では、具体的な歴史的事例として、資本主義的な企業家を多数送り出した一七世紀半ばに起源する少数派のセクト、友会徒(クエイカー)の実態を濃密に論じている。本書は、こうした長年の研究蓄積を土台にして平易に書かれた、類書のないユニークなキリスト教史として読むことができる。
友会徒たちは個人の宗教的体験(「内なる光」)を重視し、博愛主義的な「社会的正義」を追求した。そんな彼らが一方で(利己的にみえる)生き馬の目を抜く営利活動に邁進し、他方で(利他的にみえる)社会調査や企業内福祉や幅広い慈善・博愛活動や福祉国家の建設にも身も心も捧げ尽くしたのはなぜか。他のキリスト者(の企業家)とどのような異同があるのか。本書はこうした諸問題を、チョコレートで成長を遂げた友会徒のライバル企業とその創業家一族の成功と失敗がない交ぜになった激動の一〇〇年超の歴史に即して、縦横に論じている。
翻って現在、SDGsが叫ばれる新自由主義の世界で、企業家たちは、キリスト者たちは、どのような信念をもって進んでいくべきなのか。考える素材という意味での食べ応えは保証するので、ぜひご賞味あれ。
金澤周作
かなざわ・しゅうさく=京都大学大学院教授