聴く者に寄り添う説教者
〈評者〉松本宣郎
先年逝去された大沼隆先生は若くして仙台の教会の牧師となり、生涯その教会で奉仕されたが、並行して宮城学院中高校の聖書教師、そして校長、学院全体の宗教総主事をも務められた。評者はその宮城学院の教学の責任を共に担った時期があり、先生の信仰と働きに教えられるところが大きかった。この度先生を敬愛する方々の尽力により、残された膨大な説教ノートから精選された四〇編の説教が一冊にまとめられた。その刊行を喜びたい。
四〇編は主題により旧約、新約編と卒業式などにおける説教の三部に編集されている。一九六六年から二〇一八年まで長きにわたって語られた説教が収載されているが、著者三〇代の一九七〇年初期までのものが半数を占める。日本の学校・大学に学生らの異議申し立てがあり、社会的にも激動の時代であった。これらの説教には当時の空気が反映して採録される存在感を見出されたものだろうか。
通読してまず感じたのは文章の心地よいテンポである。「である」調で断定的、歯切れがよい。実はこの文章から評者はかつて礼拝堂で耳にしていた説教の温かみのある語り方との違いを感じた。語るときは当然ていねい語だからソフトにはなるはずだが、それ以上に二者には落差があるのだ。思うに著者はノートに記す説教には、聖書、キリスト、そして世界と社会の当時の現況への、いわば湧き上がる熱い思いを書き記したのではないか。それが礼拝堂で語るときには聴き手に対する配慮が、ノートの言葉を和らげさせたのではないか、それは著者の人柄を知る者としては理解できるところではある。
もう一つの本書の特色は著者の驚嘆すべき読書量と、それぞれの時代の世界情勢や社会の風潮への旺盛な吸収力である。ソクラテス、ヘーゲルは言うに及ばず、心理学、哲学の研究書、金子みすずの詩に至るまで、またニュースやテレビ番組の数々が、縦横無尽に、しかも適切に引用され、信仰的本論へと導かれる。全体に、聖書を基本に置きつつも、聖書講解説教ではない。著者が本書のために書き下ろしたわけではないが、「まえがき」(一九七八年筆)で「現代に生きる信仰」と題して、現代社会に生きるための教会の自己変革という考えを強調しているのも、著者が現実世界に、キリストの福音のまなざしで批判的に関心を持ち続けたことを示唆するし、その姿勢が著者の説教の基調をなすことが理解できるのである。
さらに大事な特色は著者が、私たちはみな、キリスト教信仰をなかなか受け容れがたく、あるいは信仰者であっても不幸な現実につまずいたり、社会や人生に絶望するものだ、しかし大丈夫、私たちは聖書に聴き、キリストにすべてを委ねることが出来るのだから道は開く、希望を持って生きてゆけばいい、と繰り返すことである。書名の示すとおりである。著者はその生涯を通して、自分もまたつまずき、絶望する人間であることをそのままあからさまにして、その自分がキリストから希望を与えられていることを確信して、だから大丈夫だと語ってやまないのである。本書には著者の手になるスケッチも載せられ、著者の幅の広いしなやかな生き方を垣間見させる。聴く者の地平で語る本書に親しみと励ましを読者は感じるであろう。
松本宣郎
まつもと・のりお=前東北学院理事長・大学長