二〇二三年八月三日から六日まで、韓国の釜山にて開催された第一八回東北アジア・キリスト者文学会議に参加する機会を得た。本会議の創始は一九八七年に遡る。隔年で日韓両国で交互に開催し、文学に携わる東北アジアのキリスト者が広義のキリスト教文学を対象に討議し、互いに研鑽と交流を深め、文学を通して福音の伝播に資することを目的としている。コロナ禍による二年間の延期を経ての開催であり、韓国側から三十名、日本側から九名が参加した。酷暑の日本を脱出し、眩い夏の陽射しが青い海と白い街に照り映えるなか、副会長の梁汪容氏、宋廷宇氏らが金海国際空港で温かく出迎えて下さった。 水営路教会エレブー教育館を会場に行われた三泊四日の集いは、任満浩会長による挨拶と日本側代表の柴崎聰氏による答辞で幕を開けた。水営路教会重唱団の美しい合唱と心づくしの韓国料理によるレセプションが続き、第十二回アジア・キリスト教文学賞が詩人で藍理教神学大学名誉教授の閔泳珍氏に授与された。
全体テーマは「私(私たち)にとってイエス・キリストは誰なのか」であり、金奉郡氏の基調講演「キリスト教作家の自己同一性回復」はこの問いかけへの対峙を促すものであった。プログラムの中心は、あらかじめ選定された日韓のキリスト教詩・小説に対して各々両国から行われる発題と質疑応答である。本多寿の詩「聖夢譚・拾遺(1)」「同(2)」について宋廷宇氏と岡野絵里子氏、李承雨の短編小説『心の浮力』について朴南?氏と芹川哲世氏、閔泳珍の詩「幼いイエス」「ユダの口づけ」について服部剛氏と南錦煕氏、太宰治の短編小説『駈込み訴え』について金鐘曾氏と奥野政元氏がそれぞれ発題を行い、参加者の間で熱い議論が交わされた。
存在の痛みに震え、その悲しみと愛が一つに結ばれていくような本多詩人の詩語、そして岡野・宋両氏による発題には、特に心響くものがあった。初読の李承雨の小説は、旧約聖書のエサウとヤコブの兄弟物語を下敷きに、家族という卑近で日常的な次元で露わにされる愛の諸相の繊細な振幅を浮かび上がらせる。神学者でもある閔泳珍氏の詩、また一人称語りを存分に生かした太宰の短編は、共にイスカリオテのユダをモチーフとするが、前者は特に議論を呼び起こした。キリスト教や聖書的世界を題材にした文学作品の場合、重心が「キリスト教信仰」にあるか「文学」にあるかは、作者の立つ地平によって異なるうえに、作品自体をどう評価・解釈するかは、読み手がいずれの側に軸足を置いて受容するかでも異なる。それが「キリスト教文学」の困難であり両義性でもあり、この自覚が文学とキリスト教の双方にわたる豊かな創造性に繋がるのだろう。さらに付言すれば、作品空間にそれとは異質の垂直的な次元からの美や救いの光を垣間見せるか、切り拓きうるかが「キリスト教文学」には問われている。
三日目午後の文化体験では、朝鮮戦争(韓国戦争)で戦死した国連軍戦没者の墓地、在韓国連記念公園を見学し、平和を祈念する思いを新たにした。その後、日本代表団側主催の夕食会がザガルチ市場で催され、歓談を楽しんだ。これまでの会議参加者の詩文を収めた日韓対訳のアンソロジー集『あなたは共におられる』(同会議編、創造文藝社、二〇二三年)が発刊され、韓国キリスト教現代詩人の豊かな創作活動を知ったのは貴重な体験であった。健康面の不安から直前まで参加を躊躇っていたが、言葉を交わした幾人もの詩人から美しい詩集を頂戴し、文学的交流の悦ばしいひと時を味わった。
後援のキリスト教文書センター、実行委員会代表の柴崎聰氏、補佐された市川真紀氏、宋廷宇氏、司会進行・通訳の権宅明氏、権ヨセフ氏はじめ関係諸氏に感謝申し上げる。
(くぎみや・あけみ=白百合女子大学カトリック教育センター教授)
釘宮明美
くぎみや・あけみ=白百合女子大学カトリック教育センター教授