古代キリスト教史研究に不可欠な古典的名著
〈評者〉片柳榮一
これは途方もない書物である。その途方もなさは、この書に描きだされたマルキオンという、古代キリスト教世界に生きた一人の「異邦人」の生に由来し、また古代キリスト教会を知り尽くした教義史の第一人者アドルフ・フォン・ハルナック(一八五一─一九三〇)がこの異端者を現代において復権しようとした意図の故である。
ハルナックによればキリスト教はその生成の始めから本質的に「混交主義」的たらざるをえなかった。「後期ユダヤ教の最も高度な表現形態であるこの宗教(キリスト教)は、その伝承と知識のすべてをキリスト教的記号によって、新しい生の概念である「信仰」の中へと受容した。このことから、この宗教は最初から著しく混交主義的な宗教であり、まさにそれゆえにカトリック的宗教であった」(二〇頁)。ここでパウロが果たした役割は重要である。「確かに─パウロはすでに、部分的には寓意的解釈という手段を通じて、また部分的には歴史哲学的な考察を通じて、人類の教育と、救済に不可欠な和解という思考に基づいて多数の障害を取り除き、旧来のユダヤ教の神概念から多くのものを消し去っていた。そのようにして祭儀に関する律法だけでなく、旧約聖書における多くの厄介な表現の塊も取り除かれた」(三四頁)。ハルナックによればグノーシス主義者たちも、混交主義に対して明白な宗教的感覚を対置しようとしたとする。その意味ではパウロの切り開いた路線上にあると言えよう。しかしハルナックによれば彼らは、もう一つ別の「混交主義」を導き入れたという。「『グノーシス主義者たち』の中でも、キリスト自身による救済的意義から出発して、原則的にはパウロに従いながら、多くの宗教的かつ道徳的な主題を排除することによって、キリスト教的に明白な構造を付与する者がいたのを我々は目にするであろう。だがその際に、彼らは異邦の秘儀的な思弁から莫大な借用を行っていたのである」(二九頁)。
このような流れの線上に、しかも極端なところにマルキオンはあったが、マルキオンはそうした思弁の借用はしなかったとハルナックは考える。「『イエス・キリストの父であり、異邦なる、善なる神について』というマルキオンの宣教には、最も簡潔でありながら、すべてを包括する表現が見いだされる。この神は自らにとって全く異質で、悲惨な状態にある人間を、最も強力な束縛から─信仰によって永遠の生へと救い出すのである。この宗教の逆説性、明白な力、救済としての排他的な特性がそこに要約されている」(三五頁)。この異邦なる神というマルキオンの認識は結論を引き出す。「したがって、キリストの姿で人間の前に姿を顕す以前に、真理において神であり救済神が、いかなるあり方でも顕現しなかったということは、その救済の性質から求められているのである。それゆえ、絶対的に異邦の存在としてのみ、この方は理解されなければならない。しかしこのことから生じるのは、キリストの救済によって解放されるべき、敵意に満ちたものとは、この世界とその創造者それ自体にほかならないということである」(五二頁)。
一九世紀ドイツの自由主義神学の代表者の一人としてハルナックはマルキオンの意義に思いを潜めて、鋭く語る。「マルキオンは、福音を純粋なものとして保持できるようにするために、旧約聖書を誤ったものとして、神に背く書として拒絶しなければならなかった。この『拒絶』は今日においては重要ではない。むしろこの旧約聖書という書物は、正典としての権威をもつことによってではなく、それが取り除かれることによって初めて、その価値がその独自性と意義(預言者たちの)において、至る所で認められ、評価されるであろう」(二八八頁)。
ハルナックがその著『マルキオン』において提起したマルキオン復権の問題は今なお巨大な問いかけとして私たちの前に聳え立っている。
片柳榮一
かたやなぎ・えいいち=京都大学名誉教授