キリストに倣う者として、動物との関係を再考する
〈評者〉竹之内裕文
「なぜ肉を食べるのか」─大学院生時代に留学先のドイツで、ペスクタリアン(魚菜食主義者)の友人に問われた。その後もベジタリアンやビーガンの知人と食事を共にするたび、この問いを突きつけられた。早いもので、最初の問いかけから25年が経つ。真摯に問い続けてきたつもりだが、いまだ肉食を絶つにいたっていない。どこか納得のゆかない部分が残り続けたのだ。
白神山地のマタギのもとへ通い続け、狩猟採集の知・技とそれを支える生態・死生観にふれてきたことも大きい。マタギは神々に感謝し、すべての生き物に敬意を表しながら、生態系のうちで、いのちに与って生きる。生きるためには、食べなくてはならない。食べるためには、動物と植物の別なく、生き物を殺さなければならない。
マタギの理解とは対照的に、従来の動物解放論・権利論では、苦痛を感じる能力や自己意識の有無を基準に、動物と植物のあいだに一線が引かれてきた。動物を食べることは差し控えるが、植物についてはほとんど意に介さない。人間が設定する恣意的(人間中心主義的)な基準によって可食/非可食の境界線が定められるのだ。
生き物と生態系のかかわりをどう捉えるか、それを踏まえて生き物(人間)が生き物を殺して食べるという日常の営みをどう考えるか。この点で著者は、評者とやや見解を異にする。ただそれは本書の価値を損なうものではない。著者は「理性」(正義・権利)と「感情」(ケア・共感)の関係を相補的に捉え、従来の動物解放論・権利論を踏み越えていく。「権利」の成立基盤は、生き物が抱える「脆弱性」─他者と環境への依存性と死を免れない有限性─とこれに対する「共感」に求められる。「権利」とは基本的に「関係」に依拠したものであり、動物との関係を離れて「動物の権利」を語ることはできないのだ。
本書の特徴は、宗教哲学・倫理とキリスト教神学の先行研究を広く視野に収めて「動物倫理」と「共感」の思想史を描き出す点、また「食の神学」を踏まえて肉食と動物倫理について考察する点にある。以上を経て、多様な動物(畜産動物、伴侶動物、野生動物など)を包摂する、動物倫理の「権利・共感・宗教モデル」が提唱される。
本書の読者は著者とともに、長い探究の旅路を歩むことになる。しかし、次のいずれかの問いを携えているならば、その旅路は発見と喜びに満ちたものになるだろう─キリストに倣う者としてなにを食べたらよいのか、動物とどうつき合ったらよいのか。
本書では「隣人としての動物」という神学者ダニエル・ミラーの見方が紹介され、掘り下げられる。イエスのたとえ話に登場するサマリア人は、ある旅人が傷ついて路上に倒れているのに気づく。それを見て、かれは具体的な行動へ駆り立てられる。当人の苦しみ・痛みを感じとってしまい、もはや他人事と片づけられないからだ。話の発端は、「わたしの隣人とはだれですか」という相手の質問にある。イエスはこれに答えず、たとえ話の後に相手に問いかける─「だれが隣人になったか?」。
最後の問いかけとともに、対話の局面は大きく転換する。だれが隣人に該当するかという線引き問題は解消され、一人ひとりと出会い、どのように関係を築いていくのかがクローズアップされる。人種や宗教などの異同は、もはや指針を提供できない。隣人に対してどのような態度をとるべきか、イエスはこの点でも具体的な基準を示さない。相手の苦しみを目の当たりにするとき、わたしたちは憐れみ・慈愛(compassion)に突き動かされ、具体的な行動へ背中を押される。そこで具体的にどのような態度・行動をとるか、それは一人ひとりの判断に委ねられるほかない。それこそ各人の生の課題であるからだ。
動物を「隣人」と捉えるとき、これと同様の転換が生じる。相手の動物とどのような関係を築き、どうやって共に生きていくのか、それは各人の生の課題である。ただ同時にわたしたちは、それぞれの出会いと共生の経験を携えて対話を試みることができる。それを通して多種の生き物に応接するふさわしい態度について、社会的な共通理解が築かれるだろう。
竹之内裕文
たけのうち・ひろぶみ=静岡大学教授