旧約聖書がわかると、福音がもっとわかる!
〈評者〉田中 光
正直に白状すると、J・ゴールディンゲイについて、私には以前勝手な思い込みがあった。彼がフラー神学校という福音派の神学校で教鞭を執っているということは前々から知っていたので、いわゆる「福音派」の神学的理解を、旧約聖書学を通して主張する人物だろうというレッテルを貼っていたのである。
ところが、ゴールディンゲイの様々な著作物を実際に読んでみると、彼の旧約聖書の読み方は、旧約聖書を無理やり「キリスト教化」するような読み方とは著しく異なり、旧約聖書の内容をできるだけ客観的で学問的に語るものであることがたちどころに明らかとなる(私が授業のために最近参照するようになった彼の詩編注解などはその一例である)。一方では、彼は英国国教会の司祭でもあり、旧約聖書学を明確に教会に仕える学問として位置付けることも忘れない。彼のフラー時代の同僚で、新約学者のJ・グリーンもこの両面を指摘して、ゴールディンゲイの学問的スタイルが高度に学問的でありながら、同時に福音を旧約聖書から躊躇なく宣言するものであると評している(フラー神学校が運営するYouTubeチャンネル“Fuller Studio”でのゴールディンゲイの紹介動画参照)。
以上のような彼の聖書解釈に対するスタンスは、今回翻訳出版された聖書六六巻の解説書である『神の物語としての聖書』においても明らかである。まずゴールディンゲイは、聖書を読むためには、「聖書の背後にいる神と、聖書の背後にいる人間の両方に共感しなければならない」(一五頁)と述べて、聖書を読む際の基本的スタンスを定める。
その後、ゴールディンゲイは一足飛びに聖書の内容にアプローチするのではなく、まずは聖書の背景となっている歴史的文脈と地理的背景について明らかにする(第1─2章)。彼はその上で、実際の聖書の内容の解説へと移る。まず、物語としての聖書の内容が解説されるが(第3─7章)、その際、注意深く述べられるのは、聖書の内容はいわゆる客観的な歴史記述とは異なり、神と神の民についての「物語」としての性質を保持しているということである。続いて、物語以外の性質を持つ聖書の内容が「神の言葉」として解説され(第8─12章)、そして神の民の神への応答としての内容を持つ聖書各書の解説がなされる(13─14章)。
締めくくりの章においてなされるゴールディンゲイの旧約聖書に関する神学的考察は特徴的である(第15章)。彼は伝統的なキリスト教的用語を用いなくとも(例えば、「キリストを証しする旧約聖書」など)、旧約聖書の教会にとっての意味を説明できることを読者に示して見せるのである。
本書は、個人的な学びだけでなく、教会や学校での学びなどにも相応しい内容を持っている。もっとも、読者は「物語としての聖書」という概念に若干の分かりにくさを感じるかもしれないし、牧師や聖書を教える教員であれば、最終章の旧約聖書の神学的理解に若干の物足りなさを感じるかもしれないが、そうしたことがかえって更なる学びのきっかけとなるであろう。最後に、大変分かりやすく正確な翻訳をして下さった本多峰子氏に心からの感謝と敬意を表したい。
田中光
たなか・ひかる=東京神学大学准教授