幕末と言えば薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の木戸孝允、土佐藩の坂本龍馬などを思い起こす人が多いのではないでしょうか。彼らが幕末の重要人物であることは否みようのない事実ですが、私たちは別の視点から幕末というものを見ることができます。それは「漂流民」という視点です。彼らは日本から漂流し、別の世界と関わることにより、この日本に大きな影響を与える存在となりました。今回はその幕末漂流民を扱った三冊の本を紹介したいと思います。
三浦綾子『海嶺』
この本は「日本に戻ることのできなかった漂流民」を描いています。文庫本解説で高野斗志美はこの本のあらすじを次のように述べています。
「岩吉・久吉・音吉の三人は、伊勢湾に面する知多半島の小野浦の舟主、樋口源六の持ち船・宝順丸の舟乗りである。一八三二(天保三)年十月十日、宝順丸は、乗組員十四名をのせ江戸にむかう。そして、その千石船は遠州灘ではげしい嵐におそわれ難破してしまう。一年と二ヵ月、船は太平洋を漂流する。そのあいだに、十一名がつぎつぎに死んでいく。奇蹟的に生き残ったのが岩吉たち三人なのである。かれらは北アメリカのフラッタリー岬にたどりつく。そして、インデアンのマカハ族にとらえられ、奴隷にされてしまう。だが、事を知ったイギリスのハドソン湾会社のマクラフリン博士のはからいで、岩吉たちは救いだされ、フォート・バンクーバーにおちつく。そこから、軍艦イーグル号に乗る。イーグル号は、サンドイッチ諸島を経て、ホーン岬をまわり、ロンドンにつく。ロンドンから、さらに岩吉たちは、商船ゼネラル・パーマー号に乗せられ、アフリカ大陸をつたいながら、マカオへむかう。マカオでの長い滞在のあと、一八三七(天保八)年七月三日、アメリカのオリファント商会のモリソン号に岩吉たちは乗りこみ、日本にむかう。しかし、鹿児島湾も江戸湾もモリソン号を大砲で追いかえす。故国を目のまえにしながら、岩吉たちはついに日本の土を踏むことができなかったのである。」
クリスチャン作家である三浦綾子は歴史的な事実と伝道的なメッセージを織り交ぜるようにしてこの本を記していますが、その中で岩吉・久吉・音吉の最大の業績である「世界初の聖書和訳」について紹介しています。彼らが翻訳したのは全聖書ではなく新約聖書のヨハネによる福音書とヨハネの手紙一、二、三だけであり、その翻訳も十分と言えるものではありませんでしたが、このことがその後の聖書和訳を促す契機となったのは間違いないことだと言えるでしょう。一九六一(昭和三六)年には彼らの故郷である愛知県美浜町に「聖書和訳頌徳碑」が立てられ、それ以来同町と日本聖書協会の共催で毎年記念式典が行われています。
この後紹介する二冊の本の主人公たちより早く漂流した彼らは、その当時の日本の国内事情から帰国することが許されませんでした。しかし、その中の「音吉」は上海においてかつての自分と同じような漂流民たちを助けたり、シンガポールにおいて使節団としてヨーロッパに行く際に立ち寄った福沢諭吉らに海外事情を説明するなど、国外から祖国のために労し続けました。彼はシンガポールで一八六七(慶応三)年に四九歳で亡くなり、遺骨はシンガポール日本人墓地と、美浜町の先祖代々の墓と良参寺の宝順丸乗組員の墓の三か所に収められています。
二〇二一(令和三)年には音吉や尾州廻船に関係した資料や年表を展示している「廻船と音吉記念館」が美浜町に開館しました。
津本陽『椿と花水木』
この本は「日本に戻り、大きな影響を与えた漂流民」を描いています。その人物とは「ジョン万次郎」です。
彼は一八二七(文政一〇)年一月、土佐国幡多郡中ノ浜村(現・高知県土佐清水市中浜)で生まれました。一八四一(天保一二)年、足摺岬沖で漁をしている際に嵐で遭難し、伊豆諸島の鳥島に漂着します。過酷な無人島生活の後、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されました。その後ホイットフィールド船長の故郷であるマサチューセッツ州フェアヘブンで教育を受け、捕鯨船乗組員としての生活の後、ハワイ・オアフ島に居住していた仲間と共に上海行の商船に乗り込み、一八五一(嘉永四)年琉球に上陸します。鹿児島、長崎での取り調べの後、一八五二(嘉永五)年に帰郷しました。その後土佐藩の士分に取り立てられますが、ペリー来航の対応を迫られた幕府から招聘されることとなり、直参の旗本の身分を与えられ、中浜(旧字体:中濱)の姓が授けられます。軍艦操練所の教授に任命され、航海術の書物の翻訳、捕鯨の指導などにあたり、一八六〇(万延元)年には遣米使節団の一員として勝海舟、福沢諭吉らと共に咸臨丸でアメリカに渡りました。明治維新後は開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命され、一八七〇(明治三)年には普仏戦争視察団としてヨーロッパに派遣され、その際アメリカの恩人であるホイットフィールド船長との再会を果たしています。帰国後軽い脳溢血を患い、その後は隠遁生活を送り、一八九八(明治三一)年に七一歳で亡くなりました。彼の墓は東京の雑司ヶ谷霊園にあります。
このようにジョン万次郎は、帰国した時がまさに彼のような存在を必要としていたタイミングだったため、幕府や新政府の中で重要な役割を担うことになりました。彼の生涯を詳しく知りたい方は、日本を代表する歴史小説家である津本陽によって書かれたこのすばらしい本を是非とも読んでみて下さい。また彼の故郷である高知県土佐清水市にある「ジョン万次郎資料館」(二〇一八年にリニューアルオープン)への訪問もお勧め致します。
吉村昭『アメリカ彦蔵』
この本は「アメリカ人として日本に戻って来た漂流民」を描いています。その人物は「ジョセフ彦(浜田彦蔵)」ですが、彼は前掲の「椿と花水木」(津本陽著)の「咸臨丸」という章で次のように紹介されています。
「彦蔵は嘉永三年(一八五〇)十月、十三歳のとき、栄力丸という廻船に乗りこみ、江戸から西へむかう途中、紀州沖で暴風雨に遭った。太平洋を漂流するうち十六人の仲間とともにアメリカ船オークランド号に救われ、サンフランシスコに送りとどけられた。彦蔵はアメリカに帰化してジョセフ・ヒコと名乗った。彼は安政五年(一八五八)サンフランシスコからフェニモア・クーパー号に便乗してホノルルにむかい、さらに清国行きの便船に乗りかえ上海に渡った。そこでハリス公使と知りあい、ミシシッピ号で神奈川に到着し通訳官に任命されたのである。」
著者である吉村昭はあとがきでこのように述べています。
「考えてみると、幕末に生きた彦蔵は、日本人として類をみない珍しい体験をしている。思わぬ運命に翻弄されて三度アメリカの地を踏み、サンフランシスコからニューヨーク、ワシントンにも何度かおもむき、驚いたことにピアース、ブキャナン、リンカーンの三代にわたる大統領に官邸で会い、握手も交している。さらに南北戦争の戦乱を実地に体験し、乗った船が南部軍の武装船に追われたり、南北両軍の砲声もきいたりして、スパイ容疑で捕われてもいる。その間、汽車にしばしば乗り、無線電信の存在に驚いてもいる。彦蔵が帰国した日本は、幕末の大動乱期で、かれはその中で激しくもまれて死の危険にもさらされ、歴史そのものを身をもって生きたのである。」
ジョセフ彦は一八六四(元治元)年に岸田吟香の協力を得て英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊します。これが日本で最初の日本語の新聞と言われており、そのためジョセフ彦は「新聞の父」と呼ばれています。彼は一八九七(明治三〇)年に六一歳で亡くなり、東京・青山霊園の外国人墓地に葬られました。彼の故郷である兵庫県播磨町の郷土資料館では彼に関する展示がなされています。
この本は徹底した史実調査を基に書かれる吉村昭らしい作品で、ジョセフ彦が上海で音吉に会ったことや、咸臨丸の出航前にジョン万次郎と会ったことも記されています。神の不思議な導きを覚えずにはいられません。
長谷川与志充
はせがわ・よしみつ=三浦綾子読書会顧問