建学の精神をつなぐランナーたちの足跡
〈評者〉佐原光児
キリスト教主義学校で働く宗教主任たちは、駅伝ランナーなのかもしれない。
ランナーがタスキをつなぐことに情熱を注ぐように、受け継ぐ建学の精神に全霊をかける人たちがいる。ランナーが割り当てられたコースを熟知するように、この世界と大学が進もうとする道のりに想いを馳せ、それを見極めようとする。創立以来の祈りを未来へとつなぐためだ。
また駅伝ランナーがチームの仲間を心にかけ、応援してくれる人たちへの感謝を覚えて走るように、その想いはいつも学校の同僚と学生たちに向けられている。タスキがつながれるためなら裏方に回り、サポート役に徹することもあるだろう。
全国のキリスト教主義学校で宗教主任やそれに準ずる働きをしている方々の責任は大きい。だが、その存在意義を組織全体が理解しているとは限らない。キリスト教への無理解にペースを乱すこともあれば、建学の精神が経営判断に飲み込まれそうな悪天候をいくこともある。喜びも多いが、荷車を引くような足取りが続くこともあるだろう。この現実を受け止め、建学の精神を懸命につなぐ青山学院大学宗教主任・宣教師の祈りの足跡が、本書である。
本書にはさまざまな場面でささげられた祈りが収められている。入学式や卒業式などの式典、もろもろの会議や箱根駅伝壮行会、クリスマスなどのキリスト教行事に合わせたものがある。さらに、学生や同僚である教職員の現実に応えようとする祈りもある(失恋した時、学業継続に悩んだ時、心が重い時、病で離職する時など)。動物実験に関する祈りは、研究において命を扱う実情を感じさせる(もちろん、動物実験そのものに対する賛否もあるだろう)。また「パソコンの調子が悪い」時の祈りは、笑いながら同意したくなるユニークなものだ。こうした祈りを受け取る人の中には、その言葉と祈る人の姿に、神の想いを見て取る人がきっといるだろう。
祈りはよく神との対話(本書のまえがきによれば「おしゃべり」)といわれる。とはいえ、わたしたちの祈りは気づけば独り言になってしまうことも多い。しかし本書の祈りは、神と人に向かって開かれている。なぜならこれらの祈りは、神だけでなく目の前にいる教職員や学生たちと共有された空間で紡ぎ出されているからだ。祈りに込められた想い、なによりその祈りをささげる宗教主任の存在そのものが、建学の精神を証ししている。宗教主任たちは神とのおしゃべりをさまざまな場面で続けながら、実はそこにいる人たちの心に触れようともしているのだ。
本書を手にしながら、わたしならこの状況でどんな言葉で祈るだろうかと思案し、自分の同僚や学生の姿を想い描いていた。読者もこの本を手に取ることで、それぞれの現場に合わせた祈りへと導かれるに違いない。
宗教主任たちはいつか、タスキの創始者や仲間から「なんと美しいことか 山々の上で良い知らせを伝える者の足は」(イザヤ五二・七)と言葉をかけてもらえるだろうか。確証はないが、今日も祈るために神と人の前に進み出ていくのだろう。
佐原光児
さはら・こうじ=桜美林大学准教授・大学チャプレン