『本のひろば』は、毎月、キリスト教新刊書の批評と紹介を掲載しております。
本購入の参考としてください。
2016年3月号
出会い・本・人
小山神学との出会い(宮本 新)
- 『日々の祈り』
鈴木崇巨著、教文館―(吉村和雄) - 『カルヴァンの宗教改革教会論』
丸山忠孝著、教文館―(出村彰) - 『逆説から歴史へ』
八谷俊久著、新教出版社―(佐藤司郎) - 『旧約聖書入門2』
大野惠正著、新教出版社―(小友 聡) - 『あなたがたは地の塩である』
渡辺兵衛著、キリスト新聞社―(関田寛雄) - 『アシジの聖フランシスコ伝記資料集』
フランシスコ日本管区訳、教文館―(神崎忠昭) - 『アウブスブルク信仰告白』
メランヒトン著、リトン―(竹原創一) - 本屋さんが選んだお勧めの本
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本・批評と紹介
編集室から
編集者として校正作業に携わる際に、常住脳裏の一隅を占める句がある。「校正恐るべし」との周知のアフォリズムである。
古今の作家・編集者の誤植に纏わる随筆を集めた『増補版誤植読本』(ちくま文庫)は滅法愉快なアンソロジーであるが、まるで聖句か信条のごとく、其処彼処にこの言葉が頻出するのが面白い。元来は『論語』子罕篇を出典とする「後生畏るべし」(=若者には無限の可能性があるのだから畏敬すべきだ)の駄洒落であるが、本歌に負けず人口に膾灸している感がある。
いつ頃の造語かと遡れば、桜痴の号で知られる明治の奇才福地源一郎による『懐往事談』(1894年)での記述に辿り着く。新聞記者の福地は、校正の拙劣さに腹が立ち、校正担当者が居並ぶ席の壁に「校正可畏」と貼り紙して警告したという。かの内村鑑三も「雑誌校正にて全日を費やした。校正恐るべしである」と日記で呻吟している(1918年12月4日)。
一世紀も前から連綿と同じ労苦が存続する現実に妙な安堵を覚える一方、手書きで原稿がしたためられ、手作業で活字が拾われていた時代は、現在より文字への配慮が厚かったのではと愚考する。情報発信が万人に解放され文字量過多の昨今、ネットニュースやブログの類に誤記を発見せぬ日はないし、校正抜きで出版される刊行物・電子書籍はどこかに穴があるもの。間違い探しは職業病だが、即座に消えゆくテロップ中の誤記までテレビに向かい指摘する癖は滑稽の極みと自嘲するほかない。
されど恐ろしきは誤植。薬品の用量に誤記あらば事故や健康被害が生まれ、法令に誤記あらば無辜の民が罪人となる。notの脱落で「姦淫するなかれ」(出20・14)を「姦淫せよ」とした17世紀の「邪悪聖書」の印刷者は獄死したとか。
校正は時に空虚で、万という誤字脱字衍字を修正できたとて、ゼロに漸近させるのみで、プラスにはできない。また、してはいけない。先の福地の書も「己れが聊かばかりの文学に誇りて妄りに訂正を加へ、却つて原稿の意を害するに至る」のは最低と説く。分をわきまえ、原稿への忠実を貫くのが使命である。
文字のゲシュタルト崩壊と格闘しつつ本日も校正に勤しむ。本稿にも誤字を潜ませておいたがお気づきだろうか。 (髙橋)
追記 誤字は膾灸→膾炙。