教派を超えて受け入れられるキリスト教信仰の核心
〈評者〉小島誠志
数多くあるキリスト教入門書の一つと言ってもいいでしょうね。原題を翻訳するとこうなります。「わたしたちの信仰を知ること」。副題は、「信じている人々、求めている人々、キリスト教共同体の人々のための道しるべ」(Knowing our Faith: A Guide for Believers, Seekers, Christian Communities)。
キリスト教の教理について書かれているのですが、展開の仕方がちょっと違います。いや、だいぶ違っています。
序章に「信仰を理解する」という文字通り序章があり、この書物全体の方向性が示唆されています。
多くの入門書は使徒信条の告白に従って、「神について」「イエス・キリストについて」「聖霊について」それぞれの主要な項目について諄諄と説かれます。この本も序章のあと「啓示」「三位一体の創造主なる神」「人間」「贖罪─イエス・キリストの新しい創造」等、型通りと言えば型通りに展開していくのですがその展開の仕方が違うのです。序章で述べられていることが通奏低音としてどの章にも響き渡っているのです。
さて、その序章です。カンタベリーのアンセルムスの有名な言葉が引用されその言葉の意味が説き明かされます。「わたしの心が信じまた愛しているあなたの真理を、いくらかでも理解することを望みます。私は信じるために理解することを望まず、理解するために信じます」。
教会が世々告白してきた教理はどうやって生まれたのか、とそのことを著者は述べているように思われます。だれかが聖書を研究して、そこにある教理を発見したのでしょうか。たしかにそういうことはまったくなかったとは言えません。しかし、基本はアンセルムスの言う通り、理解するために信じたということではないか、そう著者は言っているのです。救い主イエス・キリストを信じる(Believe in)生き方の中で少しずつイエス・キリストのこと父なる神のことが分かってくるのです。神の言葉としての聖書の言葉が分かってくるのです。
ああ、そうか! そうなのか!
教理はそうやって生まれたのではないか。
文法が出来るようになって言葉が話せるのではないのです。言葉が話せるようになってその話せる言葉の中に一定のきまりがあることが分かるようになります。それに似ているような気がします。
(神を)「理解するために信じ」る、このことがこの書の書かれている根本の姿勢であるために、どの項目でも聖霊の働きが論じられています。神を信じるということは人間が自分でなし得ることではなく聖霊の働きによるからであります。
「私たちが神の恩寵によって義とされ、聖霊が私たちの内で聖化のために働いていると言うことを理解すれば、この同じ戒めを約束として読むことができます。すなわち、『あなたは、わたしをおいてほかに神を持たないであろう』と。言い換えれば、私たちが本当にほかの神々を持たなくなるような日が来るということです」(一一九頁)。
大事なことを忘れていました。二人の訳者は考慮の末日本語の表題を「21世紀のキリスト教入門─一つの教会の豊かな信仰」とされました。
小島誠志
おじま・せいし=日本基督教団久万教会牧師