聖書は架空の世界を舞台にした創作小説ではなく、古代西アジアや古代地中海世界の具体的な場を舞台とする壮大な書物です。これらの地域の歴史・文化を知ることで、聖書世界のイメージはますます活き活きとしたものになります。それを、物質文化という、非常に明確な方向性から促進する学問領域が聖書考古学です。
聖書考古学と呼ばれる学問は、かつては聖書に記された出来事が歴史的事実であると実証するための取り組みである時代もありました。しかし、聖書学や聖書考古学の研究が進めば進むほど、考古発掘調査の示すデータと聖書の記述がしばしば一致しないという結論が導き出されることとなりました。そのような中、聖書考古学はかつての目的から離れ、「古いモノやコトを考える学問」という考古学の基本的な精神で以て聖書の舞台となった地域を研究する学術領域となりました。
これからご紹介する書籍の著者たちによれば、聖書考古学とは「聖書の舞台になった西アジアに残る古代遺跡の発掘調査をもとに、聖書時代の社会や文化を研究する学問」(月本昭男)であり、「聖書の歴史的記述の深い理解に達するため、特に聖書の舞台となった古代パレスチナを中心とした考古学」(長谷川修一)と定義されるものであり、筆者も基本的にそれらの定義に同意しています。
様々な出土物を通して聖書の世界観を示す聖書考古学は、調査・発掘の技術と知見の進化もあって海外ではかなり盛況の分野です。また、日本でもまだ数は少ないものの、優れた論文や入門書が普及しつつあります。その聖書考古学に触れるための良書を分かち合わせていただきます。。
①月本昭男『目で見る聖書の時代』日本キリスト教団出版局 一九九四年
聖書の中で言及されている物品や飲食物、建造物、道具などはどのようなものなのだろう?そのように思われたことはないでしょうか。現在でも用いたり食べたり飲んだりするものについては、想像するのも難しくはないかもしれません。とはいえ、同じ言葉でも指し示すものは時代や場所が変われば異なるものです。たとえば「パン」一つとっても、現在でも様々な種類がありますし、国が変われば品も相当変わります。聖書の中に出てくるパンはどのような形状で、どのような窯で焼かれていたのか、どのような器が作られて料理が盛られていたのか、皆様も想像されたことはないでしょうか。他にも、様々な生活環境や社会状況を考古学から知ることができます。本書はそれらについて多くの情報を与えてくれています。構成は以下のようになっています。
第一章 遺跡に残る生活の跡
第二章 出土品に見る生活と文化
第三章 考古学資料と歴史の再発見
第四章 イエスから初代教会へ
第五章 古代イスラエルと周りの人々
第六章 神々の世界と聖書の信仰
それぞれの項目ごとに、主題に則した写真やイラストが数多く掲載されており、イメージが膨らみますし、的確にまとめられた解説によりその理解が深まります。
聖書の言葉と歴史的状況を考古学調査の成果と比較しながら進められる記述を通して、わたしたちは、旧約聖書や新約聖書各文書の伝承の担い手たち、記者たち、あるいはまた、登場人物たちがどのような風景を見て、どのような世界観を持っていたのかを味わうことができます。刊行から三十年経ってもなお書店に並ぶロングセラーになっているのも納得の好書です。
②長谷川修一『聖書考古学 遺跡が語る史実』中公新書 二〇一三年
聖書の記述、ことに旧約聖書の記述には神話や民間伝承、歴史などが織り交ぜられた、いわゆる「物語られた歴史」が見られます。本書は、史料としての聖書という側面から聖書、ことに旧約聖書の歴史を中心に聖書考古学の考え方や適用について多くの示唆を与えてくれるものとなっています。旧約聖書諸文書の執筆事情についての解説から始まり、その後、聖書考古学は何を明らかにするものであるのか、また、その方法論はどのようなものであるのか、そうして研究成果としてどのようなことが判明しているのかが説明されています。
新書版というサイズであるにもかかわらず、詳細な解説があり、写真や図版、地図なども効果的に配置される、たいへん豊かな内容の書物となっています。第一章の旧約聖書諸文書の成立事情についての概説は旧約聖書という書物を読む際に重要な視点を提供してくれています。考古遺物の評価の仕方、西アジアの遺跡に特徴的なテル(遺跡丘)の性格、発掘調査している遺跡の年代決定のために重要な層位学と型式学などについて解説されている第二章は、聖書考古学はもちろん西アジア地域以外の考古学に関心があるかたにも読みごたえがあるものと思います。第三章以降は、アブラハム、イスラエルの民のカナンの地への定住、イスラエル王国時代、ユダヤ教とキリスト教が成立してゆく時代が「史実性」をキーワードに、聖書本文と考古調査の成果とが比較検討されながら進められてゆきます。歴史的に確認できること、歴史的に確認できないこと(また、そうだとすると、なぜそのような物語が編まれるようになったのか)が詳細に言及されてゆきます。終章は「聖書と歴史学・考古学」と銘打たれ、この主題の現在と将来の展望について、まさにこれらの領域を専門としてこられた著者の語りを見ることができます。聖書考古学を学ぼうとするかた、関心のあるかた必読の一書と言えます。
③F・G・ヒュッテンマイスター/H・ブレードホルン『古代のシナゴーグ』(山野貴彦訳)教文館 二〇一二年
最後のお勧めの書物は、筆者もかかわったもので、ドイツの代表的な古代シナゴーグ(会堂)研究者二人が日本向けに書きおろしたシナゴーグについての解説書です。
シナゴーグは古代から現代に至るまでユダヤ人にとって生活の中心となる施設です。また、新約聖書を見ますと、ナザレのイエスが安息日ごとに訪ねて驚くべき教えやわざを行う場であったり、使徒パウロが旅先でまず訪ねる場であったりしたこともよく知られています。
本書ではその施設がどのようなものであったのかが文献学と考古学の両面から詳細に解説されています。聖書、古代のラビ文献、碑文といった文字資料でシナゴーグはどのような表記で言及されていたか、また、古代のシナゴーグに特徴的な床モザイク芸術や建築様式にはどのようなものがあるのかなどについて、南レヴァント(ゴラン・ガリラヤ・サマリア・ユダヤ地方を含む、この地域の地理学的総称)で発見されている多くの考古情報を中心に説明されます。現在に至るまでのユダヤ教の会堂に、また、キリスト教の教会、さらにはイスラム教のモスクにも影響を与えている古代のシナゴーグは実に多彩な姿を有しており、その最初期の姿を伝える本書の内容は、共同体を形成するとは何か、集いの場とは何か、礼拝堂とは何か、といったわたしたちの生活においても重要な事柄について想いや考えを深めるものとなっています。著者陣が集めた貴重な写真の数々、著者陣と筆者とで相談しながら作成した詳細なシナゴーグの分布地図など、様々な視覚的情報も豊富にちりばめられており、イエスと人々のまじわりがあった風景を想起させてくれます。
優れた解説と写真や図版、地図や年表などによって聖書の時代の状況を想起させる今回の三冊の書物を通して、読者各位の聖書世界へのイメージはますます深められることでしょう。そしてそれにより、聖書のみ言葉がますます皆様の想いと信仰にさらに深く迫ってくる、そのような豊かなときを味わわれるのではないかと思います。