Ⅰ
民主主義について考えるためには、まず杉田敦さんの『政治的思考』(岩波新書、2013年)を手に取っていただくのが、なかなかいいのではないかと思います。第一章が「決定─決めることが重要なのか」。次が「代表─代表・なぜ・何のためにあるのか」。第三章が「討議─政治に正しさはあるのか」。つぎが「権力─どこからやってくるのか」と続き、第八章「距離─政治にどう向き合うのか」で終わっています。すべての章が、対話の相手に著者が淡々と自分のとらえ方を語る形で書かれており、目次が示しているように、政治や権力についての疑問や反発を取り上げる中で、民主主義が浮き彫りになっていきます。よく考え抜かれた、それゆえにわかりやすい文章で、市民のための「政治的思考」が(つまりは民主主義のための思考法が)案内されています。
Ⅱ
宇野重規さんの『民主主義とは何か』(講談社現代新書、2020年)は、ある「市民アカデミー」でのセミナーがもとになっているということです。民主主義の思想史が、大変分かりやすく、と言ってレヴェルを下げることなく語られています。少し詳しく紹介してみましょう。
市民の討議による政治(デモクラシー)は古代のアテネで始まったとされますが、ではなぜアテネだったのか、本書の第一章「アテナイ民主主義」はその事情を説明し、またその「直接民主主義」の工夫を紹介しています。同時にいち早くアテネの「デモクラティア」にも現れた問題面、たとえば「ポピュリズム」なども取り上げられています。
第二章「ヨーロッパへの継承」は、アテネの民主主義が、共和制ローマと、ローマ帝国を介して中世ヨーロッパに継承された事情を語っています。西洋の封建制では、君主と封臣たちの間に契約的な関係が形成され、この契約のルールを君主側に遵守させる「中世立憲制」が作られました(よく知られているものに「マグナ・カルタ」)。また商工業者で構成された中世都市の内部でも、上層身分による市政支配を民主化する下からの努力がかなり成功しました。こうした「中世立憲制」や、中世都市の中での民主化の歴史を継承しつつ、「近代」の立憲制や民主主義は出現したのでした。
第三章は「自由主義との結合」と題されています。一見、民主主義と自由主義は、手と手を取り合って来たように見えます。が、多数決で政策を決定することにのみ0 0 急な「民主主義」であっては、意見を異にする少数派の声が切り捨てられる可能性(→結局は「多数の専制」に行き着く)が生じます。そこで少数派の声を十分に尊重する方法を講じる必要も生じます。後から見ると少数派の意見こそ、もっと良い「別の選択」を提示していたことが分かる場合もあるわけですから。また、宗教改革後を経験した後の近代西洋には、次第に個人の思想・信条の自由を尊重しようとする「寛容」な「自由主義」が育ちました。この章ではこうした「自由主義」を組み込んだデモクラシーへの歩みが、すなわちロックやバンジャマン・コンスタンの、さらにはトクヴィルやJ・S・ミルの思索の意義が分かりやすく説明されています。(ただし、ルソーは、あくまで古代ポリスの民主
主義をモデルに「社会契約論」を考えました。ロックらとルソーの民主主義観の重要な違いについて、この章は考えさせます。)
さらに第四章「民主主義の実現」では、まず二〇世紀の資本主義の発展と挫折、これに伴う大衆社会の出現と病理、ファッシズムや全体主義の出現を考察しています。さらに第二次大戦後のデモクラシーの再建が論じられています。著者はまず、第一次大戦後に、ウェーバーが「人民投票的大統領制」の必要性を論じ、またカール・シュミットが「民主主義は同質的社会にのみ相応しい」と論じたことが、結局は、「指導者(フューラー)」ヒトラーのもとで「異分子」を粛正したナチズムへの道を開いた面に注目しています。今またファッシズムの靴音が聞こえる中で、著者のこの指摘は不気味です。しかし著者はまた、こうした危うい政治学を乗り越えようとして来た二〇世紀後半のデモクラシー構想(シュンペーター、アーレント、ダール、ロールズなどの)を後半で積極的に紹介しています。
第五章は、「日本の民主主義」となっています。その1「民主主義の成立へ」では、近代化の遅れを「富国強兵」で取り戻そうとした明治の「天皇制国主義」と、その下でさえ0 0 出現した明治の政党政治や、吉野作造の「民本主義」の内容と意義を語っています。そしてそのすべてを封じ込めた「総力戦」(超国家主義)がなぜ日本で可能だったのかを分析しています。2の「戦後民主主義とは何か」では、日本の国家主義を解体し、「民主主義」を発展させる方法を追求した「丸山政治学」から、国政選挙の投票率が五割前後、若者では三割に減った今日の政治意識の衰退にまで視野が広がる戦後史が語られています。歴史忘却を警告して、「過去を記憶することが、将来に備えることである」と説いた人がいました。この章を読むと、近代日本・そして戦後日本の「民主主義」の歴史を知っておく必要がよく分かります。
Ⅲ
中北浩爾さんの『現代日本の政党デモクラシー』(岩波新書、2012年)は、戦後日本の政党政治の変遷を、1994年の衆議院選挙制度の変更をかなめとしてまとめています。
衆議院選挙については、以前から自民党内などには、大政党に有利な「小選挙区制」化を望む声がありました。しかし五五年体制崩壊後の複雑多岐な政党の利害抗争に揉まれるうちに結局─ドイツのように、死票を減らす比例代表性にもっと近づける「小選挙区比例代表制併用制」の構想もありましたが─「小選挙区・比例代表併立制」(→現実には、小選挙区制としての性格を持ち、後年の法改正でそれがいっそう強まった)に決着しました。
この新たな選挙制度改正は、多数を得た党の政権に相当な期間の安定性を保証するとともに、次の総選挙による政権交代もまた生じ易くなる。日本もイギリスの二大政党型の政治に近づくと言われました。そしてこれまで霞が関の「官僚主導」で行われてきた日本の政治は、選挙を通じて作られる政権による「政治主導」の政治に変わるとも言われました。実際に2009年の衆院選で、自民党から民主党への政権交代が起きたことはかなり衝撃的でした。しかし民主党は急ごしらえの寄合所帯で、理念も曖昧なら「マニフェスト」も急ごしらえでした。このため、外交や内政につまずき支持を失いました。その後は、この新しい選挙制度を巧みに利用し(そして公明党の選挙協力にも支えられた)第二次安倍政権の「一強」体制が続きました。この体制の下で、憲法と民主主義は大きく刳り貫かれ、権力者の驕りも極まりました。同じ著者の『自公政権とは何か』(ちくま新書、2019年)は、もっと近年まであつかっています。それだけにこの方が読みやすいかも知れません。
ちなみに、中北さんのこの本を、憲法学者の長谷部恭男さんの『憲法と平和を問い直す』(ちくま新書、2004年)と併せて読まれると、眼前の日本の政治状況について、いろいろ思いめぐらされると思います。
Ⅳ
それにしても、昔と違って、グローバルに人々の「ものの見方」ないし「ものの見え方」が多様化してきたことは、世界の民主主義に多くの変化をもたら
しています。その中で日本人の価値観もある意味かなり多様化してきました。─ある価値観(感)にコミットした人が、その価値観(感)にとらわれた眼による「現実」認識に固執し、それと異なる立場の人の現実認識を「フェイク」だと思い込む傾向も広がっています。トランプ大統領は反対派の主張をすべてフェイク(ニュース)だと主張して支持者を洗脳し、「岩盤支持者層」を確保しました。安倍政権も、一方ではアベノミックスの「余滴(トリクルダウン)」という幻想を提供し、また「右よりのものの見方」を好む人々の支持を独特の「歴史観」の宣伝で固め、好機を捉えては低い投票率の総選挙を打って「圧勝」するという「妙手」を使い続けました。─宇野さんは、別著『〈私〉のデモクラシー』(岩波新書、二〇一〇年)では、いまや、「味方と敵」という硬直した考えを超える、「他者への理解」の努力が必要だと述べています。意識的な虚偽の主張でなければ、他者の意見への一定の「理解」を持つことは可能なはずである。われわれの将来は、こうした他者理解を踏まえたディスカッションを大事にするデモクラシーを作れるかどうかにあると。
とはいえ、今の自民党内部には自己浄化作用や、安倍/菅政権とは別方向の政治的構想力は期待できそうもありません。どうすればよいのでしょうか? また野党の側にも、今度こそは政権担当能力が育っているとはいいがたい気はします。しかしとりあえず投票率を上げ、失われたデモクラシーを少しでも正常化する努力はするべきでしょう。
柳父圀近
やぎう・くにちか:東北大学名誉教授