『本のひろば』は、毎月、キリスト教新刊書の批評と紹介を掲載しております。
本購入の参考としてください。
2015年3月号
出会い・本・人
彼女たちを記念して、25年後(吉谷かおる)
本・批評と紹介
- 『ラディカル・ラブ』
パトリック・チェン著、新教出版社―(富田正樹) - 『イエスという人の物語』
ホセ・イグナシオ・ロペス他著、新教出版社―(松永武) - 『小川修パウロ書簡講義録4』 リトン―(小副川幸孝)
- 『子どもと親のカテキズム』
日本キリスト改革派教会著、教文館―(関川泰寛) - 『植民地化・デモクラシー・再臨運動』
キリスト教史学会編、教文館―(田代和久) - 『ワイマール時代のユダヤ文化ルネサンス』
M.ブレンナー著、教文館―(手島佑郎) - 『改革教会信仰告白集』 関川泰寛他編、教文館―(吉田隆)
- 『二十世紀からの贈り物』
F.アワズラー著、教文館―(大塚野百合) - 『わが家が天国になった』 錦織淑子著、ヨベル―(小林和夫)
- 『愛に基づくスピリチュアルケア』
窪寺俊之編著、聖学院大学―(関正勝) - 『この最後の者にも』
四竃揚著、日本キリスト教団出版局―(小倉和三郎) - 『富士山とシナイ山』 小山晃佑著、教文館―(松本敏之)
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編集室から
最近、職場の朝の礼拝でアモス書を聞き続けています。
三章冒頭には次のようにありました。「地上の全部族の中からわたしが選んだのは/お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを/すべての罪のゆえに罰する。」預言書の本質を示す言葉だと思いました。選びのゆえに罰する、とは、ものすごい言葉だと改めて感じました。
今朝、聞いたのは七章で、アモスは次のように言っていました。「見よ、わたしは/わが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない。」聞きながら、神が私に下げ振りをおろし、その歪みのゆえに、もはや見過ごしにできない、とおっしゃっているという、鮮やかなイメージが浮かんできました。それは真に厳しい言葉ですが、しかしそのような言葉も、神の選びと一体なのだと知るとき、その背後に薄明かりを感じます。それはやはり神の招き、立ち帰りの招きなのだと思います。
そんなふうに思いをめぐらす中で、ヨブ記三八章を思い出しました。ヨブはずっと、神さまに「出てきてください、私に語ってください」と求め続けていた。ようやく三八章で神さまが出てくるのですが、しかしヨブの期待にはまったく沿わないようなことを言い出す。「でもこの時、ヨブはうれしかったのではないか。神さまがやっと姿を現してくださって、それだけでうれしかったのではないか。」友人がそのように言っていたことを、私はふと思い出しました。
アモスの言葉も同じなのではないか。自分の暗みを突きつけられるという意味では耳を覆いたくなる言葉です。しかしこの滅ぶべき私に神さまが語ってくださったと気づく時、そこにうれしさを感じることができるのではないか。
今朝の御言葉を通してそのように思わされました。 (土肥)