『本のひろば』は、毎月、キリスト教新刊書の批評と紹介を掲載しております。
本購入の参考としてください。
2014年5月号
出会い・本・人
遺産相続できない懺悔録(宮﨑光)
本・批評と紹介
- 『聖書の物語論的読み方』J.L.スカ著、日本キリスト教団出版局―(水野隆一)
- 『キリシタン黒田官兵衛 上・下』雜賀信行著、雜賀編集工房―(川村信三)
- 『原子力発電の根本問題と我々の選択』 北澤宏一ほか著、新教出版社―(政池明)
- 『カルヴァンと旧約聖書』カルヴァン・改革派神学研究所編、教文館―(秋山徹)
- 『自然の問題と聖典』関西学院大学キリスト教と文化研究センター編、キリスト新聞社 ―(芦名定道)
- 『テゼ』黙想と祈りの集い準備会編、一麦出版社―(片山はるひ)
- 『お父さんの手紙』イレーネ・ディーシェ著、新教出版社―(小塩節)
- 『詩篇の思想と信仰 IV』月本昭男著、新教出版社―(石川立)
- 『神の国の奥義 上』潮義男著、ヨベル―(深谷春男)
- 『まさか、この私が』関啓子著、教文館―(鎌野善三)
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編集室から
春の色にあふれる道を歩いていると、やわらかな風に乗ってふとよい香りが漂ってきた。いったい何の香りかとあたりを見回すと、見知らぬ美しい花が咲いていた……、としよう。
もし、ある人はその花を○○と呼び、ある人は××だと呼ぶとしたら――その存在が特定の名をもっていなかったら――、私たちはその花の存在を否定するだろうか。あるいは、その花が世の中の誰にも知られず、百科事典や図鑑にさえ載っていない――この世に存在を知られていない――としたら、私たちは自分が認める香りを否定するのだろうか……?
ヒンドゥーの思想家ヴィヴェーカーナンダの講演録『シカゴ講義』を読みながら、そのようなことを思わせる文章に出会った――「バラは、他の何という名で呼ばれてもよい香がする」。
私たちは、存在するものには名が冠せられているということを無意識のうちに理解している。しかしそれはある意味、名によってその存在を限定し、封じ込めようとしているということかもしれない。また同様に、名をもたないものの存在を認めないという考えをも生じさせるかもしれない。
先日、〝日本人とキリスト教〟について探求されていた司祭、井上洋治師を天に送った。大学に入り、どのような本を読むべきかを先輩にお尋ねした際に勧められたのが、アウグスティヌスの『告白』と井上師の著書である『余白の旅』だった。あの本を読んだときの衝撃、感動、そして不思議と自分が肯定されたような安心感は今でも忘れられない。
あるとき井上師は、ビール瓶を指さしながらこうおっしゃったそうだ。「これが『ビン』という名前がつけられる前のこと……、そういったことを知りたいんだ」と。
名によって存在を把握しているという感覚。しかし真理は、私たちが名をもってそれを捕らえようとしても、自らを立ち現しながら風として吹きぬけ、芳しいまことの香りを放ち続けることだろう。 (かとう)