早坂文彦著 「洗礼」をめぐって(富田正樹)

バプテスマを本来の姿に引き戻す
〈評者〉富田正樹

「洗礼」をめぐって
今日こんにち聖書はなにを語っているか

早坂文彦著
新書判・224頁・定価1210円・ヨベル
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 本書が生まれるきっかけは、「未受洗者陪餐をめぐってある若い牧師から問われた」ことであったと、著者はあとがきで述べておられる。そのことから著者は「洗礼(バプテスマ)」という語をめぐる一連の説教を語り、それが本書という形になった。
 いわゆる現住陪餐会員が激減して教会の規模がみるみる縮小し、加えてコロナ禍の打撃を受け、日本のキリスト教会は満身創痍である。これは、私たちが企ててきた「伝道」、「宣教」の計画がこれでよかったのか、何が大切なのかを根本的に見直す(遅すぎたかもしれない)機会である。
 著者は、この問題に対して「だからこうすれば良い」という方策を提言しているのではない。そうではなく、そもそも「バプテスマ」とは何であるかを、聖書の言葉から丹念に掘り起こす作業を記録したのが本書である。だからこれは、いわゆる教会教育のゴールとしての「洗礼」を解説する本ではない。
 著者にとってバプテスマとは、制度でもなく、教会の入会儀礼でもなく、教会の組織を維持するためにあるものでもない。イエスの受けたバプテスマだけが真のバプテスマであり、現在教会で行われているものは、バプテスマの真髄ではないという。
 本来「バプテスマ」とは「溺死させる」という意味であり、イエスの洗礼とはイエスを水にぶっ込んで殺すということである。イエスがバプテスマを受けたということは、まずイエスが殺された(受難した)ことを象徴しているのであり、もし私たちがこのイエスのバプテスマにあやかろうとするならば、イエスと共に苦しみを引き受けることに他ならない。
 「神の救済の歴史」は、伝道や教会の成長、発展とは無関係だし、究極的には教会も信仰告白も必要なく、本当に必要なのは自分が直接神と結び付けられるということだとも説く。未受洗者は未受洗者のままでイエスを信じ、イエスの愛を実践する道も開かれている。教会の行う「洗礼」はイエスと連帯する者となる条件ではない。
 著者の洗礼論は非常にラディカルで、一見過激なようだが、終始平易な言葉で語られる、聴く人に優しい説教である。聖書の原語の解説もわかりやすく丁寧な日本語で解説されており、言葉の運用がいかに重要であるかがよく伝わってくる。そして、聖書を通して、神がいかに人間を断固たる愛をもって大切にしているか、いかにイエスが私たち人間と苦しみを共にしているかを説いている。
 本書を通して読者は、イエスがバプテスマを通して何を思い、またイエスの志を継ぐ人びとが何を思って行動したのかが、臨場感を持って迫ってくるのを感じ取るであろう。
 「洗礼」を受ける者を増産することを「宣教」と称する教会(殊に日本基督教団)の体質に否を突きつけ、手垢にまみれた教会政治からイエスを解放すると同時に、それでもなお「分裂と不和の痛みを共有することに、共同体の力が秘められている」と示唆する希望の書でもある。

書き手
富田正樹

とみた・まさき=同志社香里中学校・高等学校教員

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