長谷川忠幸著 モーセの仰ぎ見るテムナーとは何か(大坂太郎)

徹底して聖書に聴いた確かな「結実」
〈評者〉大坂太郎


モーセの仰ぎ見るテムナーとは何か
民数記1─36章における構造分析

長谷川忠幸著
A5判・416頁・定価6820円・教文館
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 本書は著者、長谷川忠幸牧師が二〇二一年一月に東京神学大学大学院に提出した博士論文の書籍化である。その研究は旧約聖書の中に流れる「人間が神の姿や形を見ることは出来ない」という思想に真っ向から反対するように見える、民数記12章8節「口から口へ、わたしは彼と語り合う/あらわに、謎によらずに。主の姿(テムナー)を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず/わたしの僕モーセを非難するのか」を端緒とし、モーセが仰ぎ見た神の姿とは何かということを示そうとするものである。
 著者は先ず一九世紀以降の民数記の先行研究を渉猟することにより、民数記は多様な文学的ジャンルを内包している反面、その配置などに統一性を見ることは出来ないと考えられてきたこと、また二〇世紀後半にそのアンチテーゼとして起こってきた、モーセ五書全体の構造理解の枠組みをもって民数記を理解しようとする流れ(G・ウェナム、J・ミルグロムなど)、更に進んで民数記自体の中に文学的・神学的な枠組みを見ようとする学者(D・T・オルソン)の見解を紹介する。だが著者の評価によれば、それらの研究は、オルソンのような民数記に限局して構造分析をしたものでさえテキストから直接得られたものではなく、それぞれの学者が想定した「構造」に適合するようにモーセ五書を再構成したものにすぎない。そうした「筋書き」を可能な限り排除して民数記自体に聴き、その構造を見出そうと努めるのが本書の流儀である。

 その結果、著者は民数記1─10章には5、6章(法とアロンの祝福)を囲い込むようにレビ人、更には十二部族が配置されている構造を見出し(一二八頁)、更に11─20章にある「反抗」をモチーフにした物語群は、1─10章にある、幕屋を中心とした聖なる境界線の順番にそった配列になっていることを発見した(二四一頁)。ほかにも21─25章に見られる散文中に詩文を織り込むことによる主題の集中(二八五頁)、更には26─36章にある「マナセの子マキル」というキーフレーズに着目し、当該箇所の背後には「たとえ父祖や親が罪を犯しても、その子孫が神の聖性を保つなら、嗣業が与えられ」るという神学的主張が強調されているという主張を展開し(三六三頁)、それらの発見に基づき、モーセの仰ぎ見た神のテムナー(姿)とは、一度は聖なる宿営の外に出される穢れを負った者も、浄められることが可能であり、宿営に戻されて、聖なる民の一人として数えてくださるものであると結論する(三九八頁)。
 本文の内容もさることながら、興味深かったのはあとがきにあったエピソード。著者が既存の研究書の要約をもとに指導教授の部屋に向かうと「つまらない」と一刀両断、教えてくださいと迫れば「わからなくなったら聖書に聞きなさい」と言われたとのこと。新約学を少しかじった評者自身にも類似の経験があったことを思い起こした。残念だが評者には本書を批判的にレビューするだけの力はないが、本書が徹底的に聖書に聴いた一つの結実であることは間違いない。
 四半世紀前、ともに駒込の桜の下でバスケットボールに興じた長谷川先生、先生を支えられた律子先生の真実な「愛の労苦」(Ⅰテサロニケ1・3)に心からの拍手を送りたい。

書き手
大坂太郎

おおさか・たろう=アッセンブリー・山手町教会牧師

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