河野勇一著 人はどこから来て、どこへ行くのか?(山口希生)

人間とは何か、という問いへの明快な答え
〈評者〉山口希生

人はどこから来て、どこへ行くのか?
《神のかたち》の人間観

河野勇一著
四六判・400頁・定価2200円・ヨベル
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 『人はどこから来て、どこへ行くのか?―《神のかたち》の人間観』は、タイトルの通りに「人間」とは何なのかという根源的な問いをキリスト教の視点から実に丁寧に、明快に解説した良書です。河野勇一氏は本書の中で、関係概念、実体概念、目的概念という三つの切り口から立体的に人間存在の本質に迫っています。
 人間と他の生物との違いは何か、という問いに対しては、例えばユヴァル・ハラリならば、人間は通貨や国家のような「虚構」概念を発案し、共有するという独特の能力を発達させたことで他の生物とは異なる存在となった、と答えるでしょう。そして、「虚構」の最たるものが「神」の概念だということになるのでしょう。しかし、ハラリといえども、神を人間のイマジネーションが生み出した「虚構」だと証明することはできません。むしろ、キリスト教の視点からは、人間を他の被造物から区別する最大の特徴は神との人格的交わりを持つことにあり(関係概念)、それは人間が神の霊を与えられた霊的存在であるからこそ可能なのです(実体概念)。さらに人間が他の被造物とは異なるのは、神から地を治めるという生きる目的を与えられていることです(目的概念)。
 人が神を否定しようとする傾向を持つのは、罪の結果として霊的部分に欠損が生じてしまい、神との良好な関係が失われてしまったためだ、というのが聖書的な見方です。したがって、キリスト教の提示する「救い」とは、人間が本来あるべき状態、つまり神との交わりを持つ存在に復帰することだということになります。この視点から、「義とされる」ということの意味を考えることは実に重要なのですが、本書はこの点を見事に説明しています。河野氏は、「義である」ということが西洋のキリスト教(カトリック・プロテスタント双方)の伝統では実体概念として、つまり人間が「義」という実体的な属性を所有しているかどうかという観点から捉えられてきたと指摘します。「義」を十分に持たない人間が義となるためには、不足している義を神から注入してもらうか(カトリック)、あるいはキリストが有する義を虚構的に自らの義として見なしてもらう必要がある(プロテスタント)、ということになります。しかし、「義である」とは、人間が神の目から見て「義」を十分に持っている(あるいは持っていると見なされる)かどうかという問題ではない、と河野氏は論じます。むしろ「義である」とは関係概念、つまり人が神と正しい関係にあるかどうかという問題であり、したがって「義とされる」とは、神との正しい関係に引き戻されることなのだ、と指摘しています。このことは、まさに近年の聖書学が主張していることであり、私も聖書学の徒として本書がこの点を明快に論じていることに大いなる喜びを覚えました。
 また、贖罪論についても実体概念ではなく関係概念から捉えていることも本書の重要な貢献です。つまり罪と十字架の関係について、実体的な公正(あらゆる罪は罰されなければならないという要求)を充たす必要があるという視点よりも、神と人間との壊れた関係を修復するために罪は克服されねばならないという視点から捉えています。その結果、神の(罰する)義と(赦す)愛という矛盾を調停させるものとしての十字架、というような見方からは自由な、神の愛の十全な表明としての十字架という視点が明確に浮かび上がってきます。ぜひ本書そのものを手に取って、これらの重要な神学的問題についての河野氏の見事な解説を味わっていただきたいと願っています。

書き手
山口希生

やまぐち・のりお= 日本同盟基督教団中原キリスト教会牧師

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