ヒロインたちの聖書ものがたり キリスト教は女性をどう語ってきたか

女性の人生も大切だ!聖書の豊かさを再発見
〈評者〉キスト岡崎さゆ里

ヒロインたちの聖書ものがたり キリスト教は女性をどう語ってきたか
福嶋裕子著
四六判・302頁・本体2700円+ 税・ヘウレーカ
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 本書は、旧・新約聖書の壮大な物語を女性たちの人生に焦点をあてつつ追っている。それも、著者が教鞭を執っている理工学部の大学生たちにとって決して宗教臭くなく、かつ毎週の礼拝説教者にも「そう来たか!」と膝を打たせる説得力を発揮しつつ。馴染み深い物語が、どこかミステリータッチで解き明かされる解釈が面白い。一部取り上げてみよう。サラ「側女つまりは奴隷の屈辱を味わった」、リベカ「アブラハムの生き方を引き継いだのは、嫁のリベカではなかろうか」、レア「ヤコブは、結婚のはじめからレアを愛していた」。どういうこと?と思ったら本書を読み進めてほしい。四〇人の女性たちがあたかも身近な知り合いのように思えてきて、その人生に興味がわくはずだ。
「ひょっとしたら?」と。
 そこには人格や心を無視された女性の悲しみもある。ヤコブの娘ディナ、エフタの娘、ダビデの娘タマルをはじめ、男性主権ゆえの性暴力や死にさらされている者は数多い。特に心に残るのは、バト・シェバとウリヤの物語だ。
ナタンのたとえ話の「小羊」とは実は誰を指すか。権力者ダビデにレイプされ姦淫の罪に苦しむ妻に、ウリヤが望んだこととは…。かのじょにとって「『ウリヤの妻』であることが、さいごまで心の支えだったのではなかろうか」、と結ばれている。聖書学者の著者は、のちにダビデの側女をレイプするようアブシャロムに提案したのは、バト・シェバの祖父であることを指摘するのを忘れない。ミステリーで言えば、聖書を丁寧に読むと伏線が張り巡らされているというところである。
 意外な評価を受けているのは、エン・ドルの口寄せの女である。禁忌の降霊術を行うが、絶望したサウル王を慰め食事で力づける。このかのじょ自身の言葉と行いに「神の真実があった」。他にも、シュネムの女や預言者フルダ、架空のユディトにも新時代の幕開けを見ている。
 新約聖書では、「イエスにとって目からうろこ」となる発言をしたシリア・フェニキアの女や、礼拝の普遍性を受け入れたサマリアの女が印象に残る。また、マルタら三きょうだいのそれぞれの持ち味を生かした「弟子」の姿が「理想の教会共同体」であると覚えたい。
 そして何と言ってもマグダラのマリアである。イエスと全行程を共にし、信仰とヴィジョンを深く共有していた弟子であるかのじょが、「悔い改めた娼婦」という美談まがいの事実無根な誤解を受け続ける事実に、「女性」の本質に対する典型的な差別構造がある。最後に占いの女奴隷に触れ、忘れ去られた女たちがいることを示唆しつつ閉じられる。
 「本書は、フェミニストの聖書学者たちの解釈に負うところが大きい」とある。女性軽視の偏見は聖書の時代から現代まで脈打っているのは確かである。しかし著者は、聖書の女性たちを過剰にかばい持ち上げるのではなく、欠点も痛みも誇りもある人格として、見落とされがちな人物たちに目を向けているのだ。かのじょたちは偉大な男性が神の使命を遂行する上での脇役ではない。人は皆、自分の人生の主役を生きている。神の目に「あなたは尊い」と言われ
る存在なのである。信仰者ではない読者も、「こんな人も聖書にいるのか」と思って読めれば、それが自分自身だと気づくだろう。知的興味をそそる客観的な語り口の中に、あたたかい視線と神の愛への信頼、そして平和への希求が立ち現れている。

書き手
キスト岡崎さゆ里

きすとおかざき・さゆり=アメリカ改革派教会宣教師、日本基督教団久ヶ原教会副牧師

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